この作品の全部あるいは一部を無断で複製・転載・配信・送信すること、内容を無断で改変・改竄することを禁止します。また、有償・無償にかかわらず第三者に譲渡することはできません。 ○新潮社の電子書籍:「Shincho LIVE!(新潮ライブ!)」  https://www.shincho-live.jp ○新潮社の書籍:「新潮社ホームページ」  https://www.shinchosha.co.jp バブル 日本迷走の原点 永野健二 はじめに 「ここにいるエコノミストの皆さんのなかに、誰一人として、一年前に今こん日にちの株高を予測している人はいなかった。これがアベノミクスの成果なのです」  2013年12月、ホテルオークラで開かれた日本経済新聞社など三社が主催する年末恒例のエコノミスト懇親会の席で、安あ倍べ晋しん三ぞう総理は得意満面でこう言い切った。 「株価がすべてを解決する」と言っているかのような、〝大おお見み得え〟だった。  その前年12月の総選挙で、安倍晋三率いる自民党は圧勝し、第二次安倍内閣が発足する。時を置かず、黒くろ田だ東はる彦ひこ日本銀行総裁が、未み曾ぞ有うの大金融緩和に打って出る。それと相前後して、のちにアベノミクスと呼ばれる経済政策が打ち出される。  ①大胆な金融政策、②機動的な財政政策、③民間投資を喚起する成長戦略──の3つが柱になっていた。株価は短期間で1・5倍近くに急きゅう騰とうし、日経平均が1万5000円台に乗せた時期だった。安倍政権の最大の目標はデフレ脱却。この株高で、デフレ脱却などいとも簡単にできる──安倍総理がそう断定しているように思われた。 「危ないな」  40年間経済記者として市場経済を見続けてきた私の信念は、「市場は(長期的には)コントロール出来ない」ということである。  1980年代後半に、日本はバブル経済を経験した。バブル経済とは好景気のことではない。特定の資産価格(株式や不動産)が実体から掛け離れて上昇することで、持続的な市場経済の運営が不可能になってしまう現象のことである。  バブルのピーク時には、株価の上昇が庶民の年収を上回るような値上がり益を生みだす一方で、都心部には普通のサラリーマンの生涯賃金を4倍にしても手が届かないようなマンションが出現した。それは人々の価値観を破壊するのに十分な出来事だった。誰もがまじめに働くことの「割りの悪さ」を感じ、持てる者と持たざる者のあいだには不公平感が広がった。そして欲望と怨えん嗟さが渦巻くなか、人々はユーフォリア(陶酔的熱狂)へとなだれ込んだ。もはや誰にも止めることはできなかった。  バブルには大きなオマケも付く。バブル崩壊後のデフレという病である。健全な市場経済の仕組みが機能せず、モノの価格が下がりすぎてしまう。90年代から今日にいたる「失われた20年」は、80年代の異常なバブルの反動として、避けて通れないツケ払いだった。  資本主義の歴史は、バブル経済とデフレという二つの病の循環の歴史である。数十年単位でこの二つの危機の間を行き来する。やっかいなのは、バブル経済が将来のデフレの原因を育て、デフレへの対処が将来のバブル経済の原因をつくり出すことである。  バブルもデフレも完全に防ぐことはできない。しかしその悪影響をできるだけ小さくすることはできる。その手段は「財政政策」と「金融政策」、そして「長期的な構造改革」である。その舵かじ取りをゆだねられているのが内閣総理大臣であり、日本銀行総裁である。  為政者はデフレの先のバブルまでを読み込んだうえで、果敢に対応策を打たなければならない。なぜなら目の前で大きな効果を生みだす政策もまた、将来において大きな副作用をもたらす政策かもしれないからである。  だからこそ、権力の頂点にいる人間には「英知」と「決断力」に加えて、「謙虚さ」が求められる。「不確かでコントロールできない市場」を理解しつつ、それでも「その不確かさを信頼しゆだねる」謙虚さである。  安倍総理の大見得には、その「謙虚さ」が不足していた。  日本の80年代のバブルとは、いったい何だったのだろうか。それをいまあらためて考えることの意味はどこにあるのだろう。  バブルはただの金融現象ではない。バブルは世界のいたるところで起き、どれも似たような様相を呈する。しかし実態はそれぞれに異なる。なぜなら、バブルはその国や地域の文化・歴史と複雑にからみ合いながら生じるからである。日本の80年代後半のバブルは、戦後の復興と高度成長を支えた日本独自の経済システムを知ることなしには理解できない。  私が「渋沢資本主義」という造語を使いはじめたのは、バブルが燃えさかり、リクルート事件が国会で話題を集めていたころのことである。グローバル化がもたらす新しい経済活動のうねりと、従来型の日本的な経済システムの乖かい離りを、なんとか説明したいと考えたのがきっかけだった。渋沢とはもちろん日本の資本主義の父、渋しぶ沢さわ栄えい一いちのことである。それくらい長い時間軸で捉とらえないと80年代のバブルを理解することはできない、というのが私の結論だった。  日本は明治以来、資本主義と日本の文化のあいだで、巧みにバランスを取り、修正する仕組みをつくってきた。資本主義には、優勝劣敗の冷徹な論理が働く。封建社会を抜け出したばかりの日本にこの仕組みを埋め込んで競争力を高めていく一方で、いかに社会的な摩擦を減らしていくか。「義ぎ利り合ごう一いつ」と「論語とそろばん」という哲学は、この矛盾に満ちた課題に対する渋沢なりの現実的な答えだった。渋沢資本主義とは、資本主義の強欲さを日本的に抑制しつつ、海外からの激しい資本と文化の攻勢をさばく、日本独自のエリートシステムだった。  渋沢の同時代には、「渋沢資本主義」と拮きつ抗こうするさまざまなライバルも登場した。福ふく沢ざわ諭ゆ吉きちのイデオロギーと行動を受け継いだ、欧米型の「グローバルスタンダード」に近い路線。そして、三みつ菱びし財閥の岩いわ崎さき弥や太た郎ろうに象徴され、独占を志向する「財閥資本主義」の路線。明治以降の日本の資本主義は、いわばこの三つのタイプの資本主義が拮抗しつつおりなすダイナミズムだったといってもよい。  そして戦後の混乱期をへて、日本にまた新しい渋沢資本主義が誕生し、定着する。その主役は、「日本興業銀行(興銀)」、「大蔵省」、「新日本製鉄(新日鉄)」だった。  戦後の資金不足の時代に資金の配分機能を握った興銀は、日本経済の司令塔となる。また大蔵省は、財政・税だけでなく金融のあらゆる許認可権を独占することで、戦後日本システムの調整役となる。そして新日鉄(70年の合併までは八幡製鉄と富士製鉄)は「鉄は国家なり」という言葉そのままに産業資本主義の頂点に君臨し、日本の財界をリードする。それを、長期の一党支配を続ける自由民主党が支えた。  80年代のバブルとは、戦後の復興と高度成長を支えたこの日本独自の経済システムが、耐用年数を過ぎて、機能しなくなったことを意味していた。日本経済の強さを支えてきた政・官・民の鉄のトライアングルが腐敗する過程でもあった。  70年代はじめのニクソンショック(ドルショック)、オイルショックによって、すでに世界経済の仕組みは大きく変わっていた。グローバル化と金融自由化という世界の新しい現実に対して、日本という国を新しくつくり変えていくべき時期が来ていた。  しかし日本は進むべき道を回避した。新規参入の少ない規制に守られた社会を求める空気が日本全体を覆おおっていた。業態別の「仕切られた競争」(村むら上かみ泰やす亮すけ)を徹底する官僚の指導が行き渡っている時代でもあった。その代表を一つ挙げれば金融機関だろう。大銀行から信用金庫・信用組合にいたるまで、護送船団方式によって、一行たりともつぶれないように、金利水準や店舗数までが調整されていた。  日本のリーダーたちは、構造改革の痛みに真っ正面から向き合うことを避けた。制度の変革や、産業構造の転換を先送りしたのは、大蔵省をはじめとする霞かすみが関せき官庁であり、日本興業銀行を頂点とする銀行だった。つまり戦後日本システム(渋沢資本主義)の担にない手たちである。彼らは残された力を、土地と株のバブルに振り向けた。  バブルは最終的には、個人のユーフォリアにまで及ぶ。「濡ぬれ手に粟あわ」の儲もうけ話を目にした人々に、借金をしてまで土地や株式に投資する癖を埋め込んだのは銀行である。バブルは日本人の気質まで確実に変えてしまった。  そしてバブル崩壊。「失われた20年」と呼ばれる長い空白期が訪れた。世界でも例を見ない長い空白期は、それ自体が、日本の何かが変わってしまったことを示していた。土地や株式で儲けようという過大な期待は薄れ、バブルを起こそうにも起こせない「デフレの時代」が続いた。  しかし状況は変わった。  12年暮れの安倍政権の発足とアベノミクスの動きは、バブルの序章である。世界経済の激震のなかで、日本の政治がそれに対応した構造改革を口にする。それは86年の中なか曽そ根ね康やす弘ひろ政権による日本の構造改革の試みと重なる。  安倍政権の株高対策に、なりふり構わぬ右肩上がりの株高・土地高を煽あおった80年代のバブルの時代の金融機関の行動に似たものを感じる。当時、銀行から聞いたリスク感覚の欠落を、最近は年金や公的資金の運用担当者、ベンチャー企業の経営者から聞くようになった。  バブルの時代を知らず、その弊害を何も学んでいない世代が、80年代を懐なつかしんだり、バブル待望論を口にすることも増えてきた。  最近の田た中なか角かく栄えい待望論は、その好例である。彼が魅力的な人物であることは否定しない。田中角栄は、類たぐいまれなリーダーシップで権力の階段をのぼりつめて総理になった。しかし彼が旗を振った日本列島改造論は、土地を商品と位置づけることで、地価の上昇を加速し、日本をバブル社会へと導く原因をつくった。そして角栄自身も、株と土地で得た資金力を権力の源泉としながら、ロッキード事件による失脚後も、長く日本の政界を水面下で操り、バブルの時代に到いたるまでその権力を保持し続けたのである。  グローバルな資本主義はおよそ10年周期で危機を繰り返し、政府のコントロール能力を弱体化しつつ、不安定さを増している。  その端緒といえる87年のブラックマンデーは、グローバル化が進んで、世界の金融・証券市場が一体化したことを象徴する事件だった。それから10年後の97年にアジア通貨危機が起こり、ヘッジファンドの雄、ジョージ・ソロスがロシアやタイの通貨で巨額の富を得て、最後はマレーシアのマハティール首相と対たい峙じする。08年、リーマン・ブラザーズの倒産を引き金とした金融システムの危機は、世界がもはや危機においても一体であることを示した。そして16年、中国の株価暴落に端を発した世界経済の混乱は、英国のEU(欧州連合)離脱という予想もしない事態を前に、一段と混乱の度合いを深めている。  それでも、世界のグローバル化と金融化(カジノ化)に歯止めはかからないし、かけることもできない。デフレの時代であろうが、インフレの時代であろうが、地球のどこかでは新しいバブルが発生して、私たちはそれと無縁では生きられない時代になったということである。  バブルとは、グローバル化による世界システムの一体化のうねりに対して、それぞれの国や地域が固有の文化や制度、人間の価値観を維持しようとしたときに生じる矛盾と乖離であり、それが生みだす物語である。  バブルの時代を知ることなしに、現在の日本を理解することはできない。私たちは、日本固有のバブルの物語に謙虚に耳を傾ける必要があるのではないだろうか。80年代のバブルの教訓は、まだ十分に汲くみ尽くされていない。  本書はバブルの時代の本質に迫るために、バブルより少し前の時代から書き始めている。最初から読むことでバブルの本質をよく理解してもらえると思うが、バブルの最盛期の話だけを知りたいという人は、第2章や第3章から読み始めてもらってもかまわない。各項は独立したコラムとしても読めるようになっている。興味をひかれた項を入り口にして、「日本のバブルの物語」を味わってもらえれば幸いである。   目次 はじめに 第1章 胎動     1 三光汽船のジャパンライン買収事件     2 乱舞する仕手株と兜町の終焉     3 押し付けられたレーガノミクス     4 大蔵省がつぶした「野村モルガン信託構想」     5 頓挫した「たった一人」の金融改革     6 M&Aの歴史をつくった男 第2章 膨張     1 プラザ合意が促した超金融緩和政策     2 資産バブルを加速した「含み益」のカラクリ     3 「三菱重工CB事件」と山一証券の死     4 国民の心に火をつけたNTT株上場フィーバー     5 特金・ファントラを拡大した大蔵省の失政     6 企業の行動原理を変えた「財テク」 第3章 狂乱     1 国民の怒りの標的となったリクルート事件     2 1兆円帝国を築いた慶応ボーイの空虚な信用創造     3 「買い占め屋」が暴いたエリートのいかがわしさ     4 トヨタピケンズが示した時代の転機     5 住友銀行の大罪はイトマン事件か小谷問題か     6 「株を凍らせた男」が予見した戦後日本の総決算 第4章 清算     1 謎の相場師に入れ込んだ興銀の末路     2 損失補塡問題が示した大蔵省のダブルスタンダード     3 幻の公的資金投入 おわりに       あとがき       バブル関連年表       参考文献       時代を見事に描き切った総括、形を変えた自伝  勝 栄二郎 写真提供:朝日新聞社(①、②、③、④、⑤) 時事通信社(①、②、③) 共同通信社(①) グラフ制作:アトリエ・プラン バブル 日本迷走の原点  日本は戦後に奇跡の復興を遂げ、1960年代には高度経済成長を実現した。しかし70年代初頭、日本を取り巻く状況は大きく変化する。ニクソンショック後の変動相場制への移行と第一次オイルショック。「円安」と「安価な石油」という高度成長の前提は崩れ去った。  国際競争にさらされる自動車メーカーや電機メーカーは、こうした変化にいち早く対応し、ジャパン・アズ・ナンバーワンと称されるほどの強さを手に入れた。一方で、変われないままの日本も存在した。国内の規制業種であり、高度成長の成功体験を引きずった戦後システム(渋沢資本主義)である。グローバル型企業と国内型企業、直接金融(証券会社)と間接金融(銀行)、新興勢力と既存勢力──あたかも日本のなかに「二つの日本」が存在しているようだった。  米国からの自由化圧力や国内の新興勢力による揺さぶりによって、「二つの日本」のあいだの亀き裂れつは次第に大きくなっていた。戦後システムの「終わりの始まり」だった。 1 三光汽船のジャパンライン買収事件  日本興業銀行(興銀)がもっていた独特の存在感を知る人の数も、次第に少なくなっているかもしれない。戦後の復興期から高度成長期にいたるまで、日本の産業史のあらゆる場面に、興銀の姿があった。興銀は大蔵省・通商産業省公認の日本経済のコンサルタントであり、日本全体の資本を差配するベンチャーキャピタルだった。  興銀は、日本の重化学工業の振興を目的として、1900年(明治33年)の日本興業銀行法によって誕生した。預金ではなく金融債の発行によって資金を調達し、それを長期で企業に貸し出す特殊銀行だった。興銀は明治末期以降の対外戦争によってその存在感を高め、40年代から太平洋戦争にいたる過程では、戦争金融の大半をまとめ、戦時経済の中核機能を果たす。当然のことながら、戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による経済改革のなかで「戦犯銀行」として廃止が検討される。  GHQが考えたのは、アメリカ型の直接金融中心の金融システムを日本に根付かせることだった。当時の日本は銀行を介して貸し手と借り手がつながる間接金融が主体だった。貸し手と借り手が直接つながる直接金融では、社債や株などを取り引きするための証券市場と証券会社の育成が不可欠になる。しかしそうしたGHQの方針にもかかわらず、興銀は奇跡的に存続する。GHQ内部の路線対立など諸説あるが、その経緯はいまもって謎なぞである。  52年には長期信用銀行法が成立し、興銀に加えて、日本勧業銀行の長期融資部門を譲り受けて新設された日本長期信用銀行、戦前の朝鮮銀行を引き継いだ日本不動産銀行(のちの日本債券信用銀行)が、長信銀三行として活動を開始する。長期信用銀行法の成立は、GHQの方針を日本政府・大蔵省が全面的に修正して、長期金融はこれまでどおり銀行による融資を中心に、間接金融でやっていくという宣言だった。  資金不足のもとでの金融の傾斜配分と、資源不足のもとでの産業の傾斜生産。日本の奇跡の復興をもたらす枠組みがこの時点で決まったのである。長信銀は日本の高度成長のためのエンジンとなった。なかでも興銀は、戦前からのノウハウと厚みのある人材によって、日本の金融の頂点に立ったのである。  興銀を頂点にして、その下に都市銀行、信託銀行、他の長信銀と政府系金融機関が並び、さらに地方銀行、相互銀行、信用金庫、農協系金融機関と続く。資金配分権が生み出す権力によって、わかりやすいヒエラルキーができていた。  直接金融の世界である社債の発行も、興銀が受託八行会と呼ばれる起債会(以下、八行会)を通じてコントロールしていた。証券会社は、株式市場の調整役として存在する脇わき役やくにすぎなかった。  興銀は、日本開発銀行の設立(51年)、海運集約(64年)、山一証券への日銀特融(65年)などで大きな存在感を発揮したが、その絶頂期は70年の新日鉄誕生の時である。八幡製鉄と富士製鉄の合併によって、戦前の日本製鉄(GHQにより解体)と同様の、日本最大の高炉メーカーが誕生する。合併を推進する八幡・富士の二社と通産省の側に立ち、大おお平ひら正まさ芳よし通産大臣とともに、合併に反対する公正取引委員会との話し合いをまとめたのは、当時興銀会長だった中なか山やま素そ平へいだった。神出鬼没の彼の働きを、マスコミは「財界鞍くら馬ま天てん狗ぐ」と呼んだ。  しかしこうした興銀の存在感は、日本の産業の中心が重厚長大の製造業であり、日本経済の高度成長が続くことが前提だった。 集約体制に刃向かった三光汽船  興銀の神通力は70年代以降、転機を迎える。71年に表面化した三光汽船によるジャパンライン株の買い占め事件は、その象徴だった。  当時の海運業界は、64年に運輸省が主導した海運集約によって、外航海運の船腹量の90%が6つの企業グループ(日本郵船、大阪商船三井船舶、ジャパンライン、川崎汽船、山下新日本汽船、昭和海運)に再編されていた。集約体制に参加した企業にだけ計画造船の割り当てや日本開発銀行融資の利子補給などを認めるという、究極的なカルテル型の産業政策だった。シナリオを描いたのは興銀である。  この海運集約体制に真っ向から刃向かったのが三光汽船である。集約体制に加わらなかった三光汽船は、株式市場を活用した時価発行増資と高株価経営に可能性を見いだす。船舶の大量発注による取引関係を武器に、造船会社に高株価の三光汽船株を引き受けさせることで、銀行に頼らずとも巨額の資金調達が可能なことを示した。新しい時代の始まりだった。  収入のすべてがドル建ての海運会社にとって、円建てでコストの高い日本人船員を雇用する時代は過ぎ去りつつあった。当時、日本船籍の船には、日本人船員を乗せることが全日本海員組合との交渉で義務づけられていた。コストの安い外国人船員を活用するには、運航する船舶が外国籍である必要があった。  そこで日本船籍ではない船舶(便べん宜ぎ置ち籍せき船せん)を作って、外国人船員中心の運航体制をいち早く追求したのが三光汽船だった。のちに日本の製造業は人件費の高い日本を逃れて、次々に海外現地生産に移行するが、三光汽船の試みは海運業における海外現地生産だった。その後の日本経済全体が抱える問題の先取りでもあった。便宜置籍船の船籍は税金の安いパナマやリベリアに置かれた。2016年4月にパナマ文書問題で話題になったタックスヘイブンは、海運業界の便宜置籍船から始まったと言われる。  三光汽船の成功は、集約体制という日本国内の秩序を最優先に考えたカルテルが、グローバルな市場で競争をする海運業界にとって、もはや時代錯誤になっていることを浮き彫りにした。しかし集約体制を作った運輸官僚や興銀が、集約からわずか10年もたたない段階で、それを認めるわけにはいかない。三光汽船の事実上のオーナーである河こう本もと敏とし夫おが、自民党の非主流である三み木き(武たけ夫お)派の実力政治家であったことも問題を複雑にした。  三光汽船によるジャパンライン株買い占めの動きが噂うわさされはじめたのは、70年の9月期以降のことである。大株主に和光証券など特定の証券会社の名義が出始める。71年9月期には、証券名義の株式は1670万株、発行済み株式数の4・7%に達する。当時は、証券会社の名義貸しが許されていた時代である。匿とく名めいでいくらでも株式を買い集めることができた。三光汽船の名前が表に出ないままの局面が続いた。ジャパンラインも防戦買いをして安定株主工作をはじめるが、それを認めようとはしなかった。  水面下のせめぎ合いが表面化するのは、71年12月になってのことだった。三光汽船はジャパンライン株式を7000万株、発行済み株式数の19・7%を取得していることを会社側に通告し、業務提携を迫る。三光汽船はその後もさらに株式を買い集め、72年9月末には、三光汽船の保有するジャパンライン株は、関係会社の持ち株を含め、発行済み株式数の41%、1億4600万株に達した。 時価発行と第三者割当増資  集約体制に参加していない一匹オオカミの海運会社が、運輸省と興銀が一体となって作り上げたカルテル体制に正面から刃向かったのである。しかも株式市場を通じて、経営権の取得を明確に宣言した。戦後最大の敵対的なM&A(企業の買収・合併)だった。  のちに通産大臣となる河本敏夫は、かねて三光汽船の社員に「世界ナンバーワンの会社になるためには他社と同じことをやっていては成長できない」と語っていた。  三光汽船を支えたのは、株式の時価発行を使った割安な資金調達である。三光汽船によるタンカーやバラ積み船の大量発注は、当時受注難にあえいでいた日本の造船会社にとって、干かん天てんの慈じ雨うだった。その弱みにつけこんで、第三者割当増資による株式の引き受けを迫る。そして造船会社が安定株主になることで、市場に流通する株式が極端に少なくなり、株価が上がる。これが「高株価経営」を可能にする仕組みだった。  三光汽船が初めて第三者割当増資をする70年の株価の安値は65円、それが71年の年末には895円の高値をつけ、72年の年末には2560円をつける。企業価値を示す時価総額は、73年3月末に、新日鉄を抜いて日本一となった。  株式市場や株価にいっさい関心を示さずに、興銀を中心とした長期借り入れで経営を回してきた日本のナンバーワン・カンパニーの新日鉄が、株価に経営の関心を注ぎ込む成り上がりの三光汽船に、企業価値で逆転されたのである。象徴的な事件だった。この時点での三光汽船の浮動株比率は、わずか3・7%だった。  第三者割当という特殊な株主割当の手法を用いた時価発行増資によって、市場に流通する株式の量をおさえて株価を高くする三光汽船流のやり方は、株価の公正さという観点からは大きな問題があった。しかし銀行や証券会社からの批判などどこ吹く風と、独自の資金調達力をつけながら、河本は三光方式による高株価経営を加速させる。  72年5月には定てい款かんを変更して「有価証券投資」と「船舶売買」を新しい業務に加え、「海運業」「株式売買」「船舶売買」の三本柱による経営を宣言した。高株価経営を持続させるには、投資家が一番の判断基準にする経常利益を稼ぎ出さなければならない。そのために、有価証券売買益と船舶売買益を、経常利益に反映させる。のちにバブルの時代に財テクに走った企業と同じことを15年も先んじてやっていたのである。  集約体制か非集約体制かという区分は、今風にいえば「規制」か「規制緩和」かという対立だった。「円建て」経営か「ドル建て」経営かというのは、国内中心の経営か、グローバルな経営かという問題である。便宜置籍船の問題は、突き詰めれば「日本人」のために雇用を創出するのか、「外国人」船員を雇って国際化するのかということである。時価発行増資の問題は、「間接金融」の銀行融資に依存するか、「直接金融」によって銀行からの自立をはかるか、という問題だった。  三光汽船がジャパンライン株の買い占めで問いかけたのは、その後21世紀にいたるまで、日本経済と日本企業が抱え続ける構造的な問題だった。そして40年の時を経て振り返ってみれば、三光汽船の主張に合理性と先見性があった。 興銀が行使した「権力」  しかし、運輸省と興銀には三光汽船の行動は許容できなかった。認めれば、みずからの政策の失敗を認めることになる。大株主の三光汽船の立場を認め、提携関係から合併にいたるという選択肢は、ジャパンラインにも興銀・運輸省にもあり得なかった。  交渉の窓口は興銀にゆだねられた。水面下の交渉がはじまる。興銀は、裏社会で隠然たる力を持つ児こ玉だま誉よ士し夫おを代理人として使うことを選ぶ。おそらく、中山素平が友人の財界人を通じて、児玉誉士夫につないだのだろう。児玉は戦前に諜ちょう報ほう機関で活躍し、戦後は保守勢力の再編に力を注ぎ、山口組など暴力団にも直接パイプを持つ右翼の巨頭だった。そして数年後の76年、ロッキード事件によって黒幕としての役割を終える。  そしてもう一人の代理人として、そごう社長の水みず島しま廣ひろ雄おが登場する。水島は興銀出身の経営者であり、学者でもある一方で、児玉という闇やみの世界の人脈にも通じていた。興銀が水島に大きな借りをつくり、90年代のそごう倒産にいたるまで、抜き差しならない関係になったのは、この事件がきっかけだった。  興銀の宿しゅく痾あは、この時に始まった。  73年4月24日、二人の黒幕、児玉誉士夫、水島廣雄の立ち会いのもとで、三光汽船社長の河本敏夫とジャパンライン社長の土つち屋や研けん一いちは、和解調停書に署名捺なつ印いんする。  唐突な決着だった。海運業界の将来についての重要な政策論争のテーマを含んでいた三光汽船によるジャパンラインへのM&Aが、アングラ社会を交えた日本的な買い占め・肩代わり劇に転じた瞬間だった。  その内容は、①三光汽船は保有する1億4500万株のうち1000万株を残してジャパンラインに売却する、②買い取り価格は一株当り380円、③今後両社は業務提携を進める──というものだった。しかし最後の「業務提携を進める」という一項を信じる者は、三光汽船にもジャパンラインにもいなかった。  数年後、三光汽船が残りの1000万株も売却することで、三光汽船とジャパンラインの買い占め問題はすべて決着する。  児玉誉士夫への謝礼はジャパンラインの感謝状とお歳暮だけだった、というのが決着の時点での興銀とジャパンラインの説明だった。絶対表に出るはずのない「噓うそ」だった。それがロッキード事件の捜査・裁判の過程で明るみにでる。  児玉誉士夫への謝礼は現金1億100万円と、東ひがし山やま魁かい夷いの絵画『緑りょく汀てい』、そして純金の茶ちゃ釜がまだった。1億円の着手金も払っており、2億100万円の現金が動いたことになる。  また、そごうの水島には、児玉から謝礼として20カラットの時価1億円のダイヤモンドの指輪が贈られていた。水島はこのダイヤを所得として申告せず、のちに国税局から追徴処分を受けている。  三光汽船はジャパンライン株の売却によって、推計で150億円の売却益を得ることになった。それは380円という買い取り価格が実現した破格の売却益だった。その価格は当時の興銀関係者によれば、「ジャパンラインの実力を上回る政治的な価格」だった。合理的な価格を上回っていることを承知した上で、興銀は決着を急いだのである。  本来、市場で形成される成熟した価格で決めるべき「肩代わり」価格を、決着本位で性急に決めたことが、その後のジャパンラインの経営をしばり、ひいては興銀の経営判断までしばることになる。  三光汽船─ジャパンライン事件の決着以後、オイルショックをはさんで、ジャパンラインがアブダビの原油開発にのめり込み、「和製メジャー」を目指すなどという、詐さ欺ぎまがいの情報が関係者から意図的に流されたのも「株価対策」だった。インサイダー取引に対する規制も何もない時代だった。  三光汽船によるジャパンラインの株式買い集めは、今から振り返っても、さまざまな問題を提起していた。  当時はM&Aという言葉は日本の株式市場に定着していなかった。マスメディアの評価は、傍若無人な政治家河本敏夫に率いられた三光汽船が、集約体制の大手ジャパンラインの株を買い占めたが、メインバンクの興銀と運輸省の理性的で的確な対応で決着し、64年にスタートした集約体制は守られた、という見方が大勢だった。  日本の間接金融の頂点に立つ興銀神話は不動だった。  この時期までの日本の経済体制を見事に分析したのが、米国の学者ケント・カルダーの『戦略的資本主義─日本型経済システムの本質』である。日本には市場経済に依存しながら、単なる利潤追求よりも広い目的を持って動く制度・組織があり、それによって資源の戦略配分が可能になっている。日本の場合には長期信用銀行と企業系列(資本面や生産面での企業の結合)がそれを代表している、というのがカルダーの考え方である。  カルダーは日本経済の作戦本部が通産省ではなく、民間の興銀だったと明言する。  カルダーは、三光汽船のジャパンライン株買い占めの問題には言及していない。しかし、この事件における興銀の役回りは、民間の作戦本部そのものだった。時価発行増資による資金調達力を背景に、傍若無人に株主の権利を主張する三光汽船に対して、メインバンクと企業の信頼関係をテコに、株式の肩代わりを引き出し、「高すぎる株価」にもかかわらず日本的な株式持ち合いで決着させたのは、興銀だった。  しかし、カルダーが指摘していないもう一つの論点がある。たしかに三光汽船の買い占め問題を解決したのは、政治、官僚、民間のいわゆる鉄の三角形の作戦本部である興銀だった。しかし、鉄の三角形が機能するためには、アングラ社会との交渉力が必要だった。その人脈こそ、興銀の権力を支えるもう一つの力だった。  児玉誉士夫の登場によって、急転直下、実力政治家である河本敏夫をも抑え込んで、決着がつくという仕組みこそ、興銀が行使した権力だった。 興銀の「終わりの始まり」  そしてこの三光汽船─ジャパンライン事件が決着したのと同じ73年の10月に、オイルショックが起きる。原油価格の急きゅう騰とうと省エネムードのなかで起こった日本経済の減速は、日本の高度成長時代の終しゅう焉えんであり、同時に国際化の始まりであった。とりわけ、収入がすべてドル建てである海運業界は、71年のニクソンショック以降の円高の加速という厳しい環境に翻ほん弄ろうされていた。集約体制という国内の協調の論理によるコスト構造の維持は、もはや不可能だった。そこにタンカー市況の低迷がおそいかかる。  タンカー運賃の基準であるワールドスケールは73年1月を100とすると、オイルショック直前に400を超えていたのが、74年1月には80、75年1月には35と、10分の1にまで下がる。  ジャパンラインの買い占めを目もく論ろんだ70年当時の三光汽船も、株式の肩代わりをしたジャパンラインも、それを仲介した興銀も、誰もが予想しない事態だった。  この時期に、はっきりと将来を見据えて、歴史的な決断をした海運会社があった。集約体制のトップ企業である日本郵船である。社長の菊きく地ち庄しょう次じ郎ろうは、高度経済成長の終焉とタンカー市況の長期低迷を予測、75年までにタンカー部門からの全面撤退を実行する。10隻せきにのぼる大型タンカーの発注をキャンセルし、既存船腹の調整も行なった。その損失は数百億円にのぼった。  撤退を決めた取締役会は、当初、菊地を除く全役員が社長の菊地の方針に反対した。しかし菊地は断固として、タンカーの撤退路線を進める。もちろん自身の首を賭かけた決断である。  当時菊地が語った言葉がある。「私の見通しが100%当たると思っている訳ではない。しかし、経営は決断です。決断しなければいけない時がある」。そして「ジャパンラインや三光汽船などのタンカー主力会社が、今、タンカーの減船を進めないで、もしも私が懸け念ねんするような環境になったら、100%経営的に存続はできないでしょう」と明言した。事態が菊地の言うとおりになったことは歴史が証明している。  ジャパンラインは、買い占め問題の決着以降、〝日本興業銀行海運部〟といわれるほど、名実ともに興銀支配の体制に移行する。派遣される社長は、いずれも興銀で代表取締役をつとめた常務クラスであり、社長室長には、のちに頭取となる西にし村むら正まさ雄おや、副頭取となる合ごう田だ辰たつ郎おなど、興銀を背負って立つ人材が投入された。  興銀支配のもとで、ジャパンラインは日本郵船とはまったく別の道を歩む。89年のバブルのさなかに、山下新日本汽船という格下の集約会社に吸収合併され、ナビックスラインとなる。それまでに興銀は、ジャパンラインに対して2000億円を大きく上回る資金を投入し、秘ひそかに損失処理をしていた。  興銀が介入してから、ジャパンラインには児玉誉士夫の関係者が我が物顔で出入りしていた。またジャパンラインの関係会社の経営権を児玉の関係者が取得する事態もあった。そして興銀本体の名誉顧問を、長いあいだ水島廣雄が務め続けた。三光汽船とジャパンラインとのあいだで大量の取引を抱えていた香港の船主、ワールドワイド・シッピングのY・K・パオが興銀顧問を務めていた時期もあった。  ある興銀幹部が自じ嘲ちょう気味につぶやいていた。「歴代の頭取以下、あらゆる幹部が、ジャパンライン問題の当事者なんです。だから、誰にも責任を取らせることは出来ないのです」。  ジャパンライン問題は、興銀の「終わりの始まり」だった。しかし、この問題で責任をとった興銀の経営幹部はいない。そして、興銀とアングラ社会のつながりは80年代のバブル時代の「そごう問題」、「尾おの上うえ縫ぬい事件」にまでつながり、興銀の命脈を絶つのである。 2 乱舞する仕手株と兜シ町マの終しゅう焉えん  グローバル化の進展によって興銀を頂点とする日本の戦後システムがきしみを上げるなか、直接金融の舞台である株式市場では、仕手グループによる株の買い占めが激しさを増していた。  1978年10月11日、東京証券取引所など全国の8証券取引所が、取引所を通さない株式の直じか取引を防止するため、「特別報告銘柄制度」を導入した。その頃、笹ささ川がわ(良りょう一いち)グループによる買い占めが話題を集めていた東証第1部上場企業のヂーゼル機器が、第1号銘柄に指定された。当時、株式市場では投機性の強い仕手株がさまざまな思惑で買いあさられ、乱舞していた。  仕手というのは能の主役である「シテ」から出た言葉だが、株式市場で短期間に巨額の資金を得ることを目的に、資金を大量に投入して売買する投機的な投資家、あるいは投資家グループのことである。英語のspeculatorに相当する。  ヂーゼル機器の買い占めでは、買かい方かたの主役とみられていた誠備グループに加えて、日本船舶振興会の会長、笹川良一の名前が取り沙ざ汰たされていた。77年12月にはヂーゼル機器の第2位の大株主に、笹川良一の息子で、競艇関係の機器を扱う日本トーター専務の笹川陽よう平へい(現日本財団会長)が登場し、翌年の6月には筆頭株主に躍り出ていた。  笹川良一は戦後にA級戦犯容疑者として逮捕されるが不起訴となり、釈放後は公営競技として競艇を立ち上げる。その政治力・資金力で、政界・経済界さらには裏社会にまで、隠然たる力を持つと言われていた。一方、ヂーゼル機器の日本の大株主である、いすゞ自動車と日産自動車は、株式の肩代わりを拒否する姿勢を示していた。  東証が問題としたのは、直前に肩代わり決着した岡本理研ゴム(現オカモト)の株価形成と肩代わりの手法である。株式市場でさまざまな情報を操作して悪材料を流し、売うり方かたを信用取引の空から売うりに誘い出す。一方で、その銘柄を買い上げて、流通株式を極端に少なくする。結果として、売り方に高値で信用取引の買い戻しをせざるを得ないように追い込む。いわゆる「踏み上げ」相場である。  踏み上げによって株価を上昇させる手法は、のちに兜かぶと町ちょうの風雲児とまで言われる、加か藤とう暠あきらひきいる誠備グループの得意な手法だった。そして決着には、会社との直接交渉による直取引を用いる。いわゆる「解とけ合あい」である。岡本理研ゴムの仕手戦では、笹川良一の政治力が市場を通さない株式の肩代わりの場面で使われた。  入り口は企業買収だが、出口は裏社会に通じた顔役による市場外の取引での決着。三光汽船のジャパンライン株の肩代わりでは、その役割を児玉誉士夫が果たした。日本的な株式の買い占めの決着における常じょう套とう手段だった。  さらに、ヂーゼル機器の仕手戦では、平和相互銀行の小こ宮み山やま英えい蔵ぞうや、政界のさまざまな人脈の関与も噂されていた。のちに平和相互銀行は、ヂーゼル機器だけで200億円を上回る資金を関係先につぎ込んでいたことが明らかになり、それが86年10月の住友銀行による吸収合併の一因となる。いずれにせよ岡本理研ゴムのケースとは比較にならない広がりを持った買い占め劇であることは間違いなかった。  加えて、ヂーゼル機器は、いわゆる仕手株というイメージからはほど遠い戦略企業であり、優良企業だった。世界の代表的な自動車部品会社であるドイツのボッシュが出資する国際企業でもある。中途半はん端ぱな決着は国際社会から批判を浴びる可能性もあった。 谷たに村むら裕ひろしの市場主義  特別報告銘柄制度の導入は、大蔵省の大物次官OBであり、東証理事長としても脂あぶらの乗り切った時期の谷村裕の決断だった。彼の市場政策の理想を実現するうえで、避けては通れない決断であった。  谷村裕は、大蔵次官から東証理事長をへて日銀総裁になった森もり永なが貞てい一いち郎ろうの後任として、74年に東証理事長に就任する。谷村は『株主勘定復活論』という著書を出すほど、株式取引について独自の哲学を持ち、使命感を抱いていた。彼の哲学は「会社は株主のものである」というものであり、今でいうROE(株主資本利益率)を重視する思想だった。  彼は所有(株主)と経営の分離をしっかりと確立したうえで、株主の権利を明確にすることが何より大切であると考えていた。したがって会社の純資産を「自己資本」と呼び、自分の自由になると考える経営者を認めなかった。また、時価発行増資によって得られるプレミアム(額面を上回って入る増資資金)が経営者の自由になるという思想も許さなかった。  そして、株主の権利をしっかりと守るためには、市場で形成される株価は透明で公正なものであるのが当然であり、取引所こそはその番人だと考えていた。  通常の大蔵省の思想より一歩も二歩も進んだ谷村裕の考え方は、戦争体験と戦後の若手大蔵官僚としての経験に根ざしていた。とくに戦後の経済安定本部に出向中、統制経済のもとで「すべての商品の価格を官僚が決めることなど出来はしない」という確信をもつ。それが、谷村の大蔵官僚らしからぬ「市場主義」の根底にあった。  谷村は特別報告銘柄制度の導入から4年後、東証理事長の退任の時期に、こう語っている。「いやな思い出となれば、まずヂーゼル機器の買い占めの問題でしょう。株を大量に買うのは別に悪いとはいわない。それは勝負なのだから。しかし、市場で株式を買いあさって値をつり上げ、市場外で高く引き取らせるというのは困る。そういう動きをチェックできるようにと思って作ったのが特別報告銘柄制度だった」「特別報告銘柄に指定したのはヂーゼル機器だけで、その後起きた誠備問題のときは市場全体がこの動きを注目し、いわば白日のもとで行なわれていたので指定しなかった」。明快な表現だった。 「私の思想は価格メカニズムに支配されているものは第一義的にこのメカニズムに任せるべきだということだ。もっとも、これまでの兜町では、人為的に取引を決着する解け合いの歴史だった。しかし、私が理事長をしている9年間は一度も解け合いはなかった。証券の世界がそれだけ近代化されてきたともいえる」と胸を張った。 磯いそ邊べ律りつ男おと法務・大蔵会  ヂーゼル機器の仕手戦は、谷村の理想を根っこから破壊する可能性のある相場だった。この時の谷村の行動は徹底していた。ヂーゼル機器を特別報告銘柄として上場規則でしばることにとどまらない。大蔵省の後輩である磯邊律男博報堂社長に頼み、検察・国税との連携も徹底した。磯邊は国税庁長官のOBとして、また法務・大蔵会と呼ばれる彼の特異な人脈を通じて、検事総長伊い藤とう栄しげ樹き率いる検察との連携もはっきりと打ち出した。彼は大蔵省と検察と国税のあいだをつなぐ究極のパイプ役だった。いわば、渋沢資本主義の代理人ともいえた。  谷村と磯邊のあいだでは、いざとなれば取引所の権限にとどまらず、法的に、場合によっては税務上の制裁もためらうつもりはないという合意が出来ていた。ある意味では、取引所と大蔵省、国税当局、さらには検察まで巻き込んだ国家権力と、仕手グループが対たい峙じする局面だった。ヂーゼル機器だけのために特別報告銘柄が存在するような様相さえ見せた。  結果として、ヂーゼル機器の株価は凍り付いた。株価も動かず、出来高もほとんどない状態が半年以上にわたって続く。上場企業を管理する取引所としては、ある種の二律背反にさいなまれる。取引所というのは上場株の流通性を保証する場所ではないのか、という本質的な問題である。79年4月、東証はヂーゼル機器の特別報告銘柄を解除する。市場関係者の見方も二つに分かれる。一つは、特別報告銘柄の役割が果たされたという評価。いま一つは、株価形成上の問題点を東証自身が認めたという見方である。  はっきりしていたのは、この時期を境にヂーゼル機器買い占め問題が、一気に決着に向けて動き出したことである。証券界のリーダーである野村証券が水面下で調整に動き、日本興業銀行もメインバンクとして大株主のいすゞや日産自動車に肩代わりに向けた路線修正をうながす。  80年の年明け以降、肩代わりに向け事態が動き出す。1月29日に開かれた株主総会で、ヂーゼル機器の望もち月づき一かず成なり社長が「大株主、関係者の方々からいろいろご高配をいただいていることはありがたいこと」と語った。翌30日、日本経済新聞は一面で、「時価で400億円を超える戦後最大の買い占め事件として話題を呼んだ笹川グループのヂーゼル機器株買い占めは、いすゞ自動車、日産自動車など大株主が笹川グループの持ち株のほぼ全株を肩代わりすることで合意し、3年ぶりに決着がつくことになった」と報じる。  そして1カ月後の2月23日、笹川グループなどが買い占めたヂーゼル株式を、いすゞ自動車など25社が肩代わりすることが最終的に明らかになる。  興味深いのは、その日の午前に平和相互銀行社長の小宮山精せい一いちが会見した内容だった。この会見で小宮山は、「ヂーゼル機器の株買い占めにからんで210億円にのぼる巨額の融資をしていた。そして株の買い占めをしていたのは平和相互銀行の取引先である日誠総業だった」と明らかにした。「すでに2月上旬に融資額の全額を回収しているので銀行の経営に悪影響はないが、庶民の金を預かる銀行として株買い占めの行為に加担したことを深く反省している」という内容だった。  当事者である銀行が自発的に話すとは思えない内容だった。監督官庁の大蔵省なのか、検察なのか、国税なのか、いずれにしても平和相互銀行の経営者に対して、権力を持つ誰かによる厳しい「指導」があったことは間違いない。  また、肩代わりに最大の役割を果たしたと言われる野村証券の田た淵ぶち節せつ也や社長は後年、「笹川良一氏のヂーゼル機器の株買い占めで、僕も中に入って事実上の解け合いの処理をした。大株主の銀行が一いっ旦たん株を引き取る約束が、土ど壇たん場ばで一行が抜け、野村がその分を引き受けた。笹川さんがなぜ買い占めようとしたのかは分からない。後始末に苦労していた息子の笹川陽平君とはその時知り合った」と語っている。  そして笹川良一の息子である笹川陽平は、ヂーゼル機器の事件以降、二度と仕手戦の舞台に登場することはなかった。笹川良一の死後、日本船舶振興会(現日本財団)の会長に就任し、NGOの仕事に専念する。  ヂーゼル機器の決着は、谷村東証理事長がもっとも嫌がったはずの事実上の解け合いだった。それは、以後の解け合いをなくすための解け合いだった。 仕手グループの分断  この決着で語られていない特筆すべきポイントは、買い占めグループが3つのグループに分断され、連携を取りにくくなったことである。ヂーゼル機器のケースを例にとれば、ひとつは金融調達機能をになう平和相互銀行グループ、今ひとつは株価コントロール機能をになう加藤暠グループ、そして話をまとめあげる決着機能をになう笹川グループ、その3つの分断だった。以後、誠備の加藤暠は、仕手グループとして単独で行動することを余儀なくされ、孤独な闘いを強いられることになる。誠備グループを孤立させ追いつめることこそ、特別報告銘柄の最大の狙ねらいだった。  加藤は77年暮れに「誠備」を発足、79年に「誠備グループ」に名称変更し、茅かや場ば町ちょうに拠点を置いた。投資顧問という言葉が、一般にも広がるのはこの頃からである。誠備のもとに参集する大口投資家は、最盛期には4000人にのぼったと言われる。  80年以降、加藤は「兜町最強の仕手筋」と認められるようになるが、実態は、孤立無援の仕手グループとしての戦いだった。野村証券を筆頭に、日興、大和、山一の四大証券を敵とみなし、「大手証券のやり方は投資家を食い物にしている」と訴え、上場企業と大手証券が市場を支配する構図に不満をもつ投資家の資金を糾合するやり方だった。  取り上げた銘柄は石井鉄工所、日立精機、ラサ工業、安藤建設、東海興業、不二家、西華産業など中小型株であり、ヂーゼル機器、岡本理研ゴムのような一流企業ではなかった。  大手書籍販売業の丸善の株式を78年の安値402円から買い占め、80年に2200円に持っていったのを皮切りに、宮地鉄工所の株を79年の201円の安値から80年の8月下旬には2950円の高値まで持ち上げた。宮地鉄工相場はマスコミでも話題となり、「兜町最強の仕手筋」という評価は高まる。発行済み株式数の70%強を買い占めて経営権を取得し、「大手証券にいじめられてきた弱小投資家の戦いだ」と豪語した。  しかし、ヂーゼル機器の相場でも分かるように、金融力を持った仕手筋の介入で上昇気流に乗った相場を、巧みに空売りを誘い込みながら、さらに上値を追うのが加藤の真骨頂だった。そして一定以上の株式数になったときには、笹川グループのような終戦処理の軍団を巻き込んで決着に向かうか、それ以前に市場を通じて売り抜けた。しかしこうした売り抜けは、誠備の虚名の拡大と共に難しくなる。  仕手グループの鉄則をみずから破ったのが、この宮地鉄工所の仕手戦であり、今ひとつは、盟友でもある岩いわ沢さわ靖おさむにゆだねた西華産業株の仕手戦である。宮地鉄工所や西華産業のように経営支配にかかわることが、加藤のいう弱小投資家にとって何のプラスになるのかは不明だった。仕手戦としては明らかに失敗だったと言える。そもそも誠備に金を出している岩沢靖を含めた経営者、また政治家たちが、本当に弱者なのかという問題もあった。  岩沢靖は、タクシー会社の金きん星せい自動車、自動車ディーラーの札幌トヨペット、そして北海道テレビ放送など、札幌を地盤に業容を広げた北海道の地場の実業家であり、政商だった。また札幌トヨペットの人脈を通じて、トヨタ系のディーラーに幅広い人脈と金脈をもっていた。  のちにバブルの寵ちょう児じとしてもてはやされ、日本長期信用銀行の倒産の引き金を引くことになるイ・アイ・イ・インターナショナル(EIE)の高たか橋はし治はる則のりの義父でもあった。岩沢は加藤の手引きもあり、70年代後半から株式投資にのめり込む。それは自身の経営する会社の収益力や含み益ではまかないきれないような投資額だった。80年、所有株をテコに西華産業の会長となるが、誠備の加藤に騙だまされ、株を押しつけられたと見る向きは多かった。  宮地鉄工所にしても、西華産業にしても、誠備の加藤が仕掛けた大相場は、出口戦略なき相場となっていた。それは、谷村裕が仕掛けた特別報告銘柄制度による分断の成果だった。  誠備グループの破滅の時は、確実に迫っていた。 加藤暠と是これ川かわ銀ぎん蔵ぞう  意外なことに、誠備グループにとどめを刺したのは、是川銀蔵という老相場師だった。  是川は、81年9月18日に始まる住友金属鉱山の菱ひし刈かり鉱山(金鉱山)をめぐる大相場を当て、82年分の高額所得者番付では、大正製薬の上うえ原はら正しょう吉きちや松下電器の松まつ下した幸こう之の助すけなどの常連を上回り、所得番付第一位、日本一の金持ちとなった伝説の相場師である。  この時、是川銀蔵は85歳。わずか半年の間に、200億円の資産を作ったことになる。  その是川は、著書『相場師一代』のなかで、誠備グループの加藤暠のことを「私の60数年の投資人生で出合った人間の中で、最も嫌いな人間は正義感のない人間だ。人に迷惑をかけても自分さえ儲もうかればいいという人物は大嫌いである」と批判する。  そして「彼らがその資金繰りに行き詰まりを見せ始めた頃、私は何度も面会の誘いを受けた。要するに、私を彼らの投資グループの味方に誘い入れて挽ばん回かい策さくを図ろうとしたのである」と明かす。その時、是川は彼らに戦いを挑む決心をしたのだという。  是川は誠備グループの買い銘柄に、信用取引の「空売り」で挑戦した。石井鉄工所、日立精機、ラサ工業など一連の誠備銘柄に一銘柄数万株から数百万株。この空売りで、是川は短期間に60億円もの利益を得たという。完勝だった。結果的に誠備グループの崩壊は、是川銀蔵との仕手戦の敗北によって決定的になった。  是川にとって誠備の加藤への批判は、兜町で生き抜いてきた、まっとうな相場師としての意地であり、遺言だった。  加藤暠は81年2月16日、東京地検特捜部に、所得税法違反で逮捕される。仕手グループとしての誠備グループはあっけなく崩壊した。しかし88年の東京地裁の判決では、起訴事実の主要箇所が退けられ、加藤は実質無罪だった。加藤の顧客である政治家、経済人、ヤクザ、著名人などの名前を完全に黙秘し、彼らに一切迷惑をかけなかったことが、相場の結果とは別に加藤のある種の評価を高めたという。  是川銀蔵の言うように、加藤は究極の品性の卑いやしい男なのか、それとも「商人道」をまっとうした男なのか。加藤は、相場の世界でいう強弱感の対立した人間である。買う人、売る人、相反する評価が相場を長持ちさせるのと同様、加藤はその後も30年以上にわたって、おりに触れて、亡霊のように現れては消える。そして2015年11月17日、東京地検特捜部により、金融商品取引法違反容疑で、妻、長男とともに逮捕される。長男は東大数理科学専攻で博士課程を修了、大阪大学数理ファイナンス専門の助教だった。特捜部の執念だった。  70年代後半から80年代の初頭は、いわゆる仕手グループが百ひゃっ花か繚りょう乱らんのように現れた時期だった。読売新聞グループの実質的な資産管理会社であるよみうりランドを買い占め、肩代わりによって相当な利益をあげた糸いと山やま英えい太た郎ろう、是川銀蔵が手掛けた不二家株を引き継いで、会社から肩代わりの利益を得たビデオセラーグループなど、さまざまな役者たちが兜シ町マを駆け抜けていった。  転機は80年代半ばの中なか江え滋しげ樹きによる投資ジャーナル事件だった。もはや仕手とは呼べない単なる詐欺事件だった。この事件をきっかけに投資顧問業法が成立して、投資顧問会社は登録制になる。仕手グループの居場所はなくなっていく。  特別報告銘柄は間違いなく、人間の匂においのする相場師たちの居場所をなくし、「場ば味あじ」というなんともいえない株式市場特有の空気をなくしていった。それは証券会社が集積する兜町が「兜シ町マ」と呼ばれた時代の終焉だった。  日本だけの閉じられた株式市場の終わりでもあった。兜町を取り巻く状況は急速に変化し、グローバル化・自由化を求める内外からの声が日増しに強くなっていた。 3 押し付けられたレーガノミクス  1979年夏に、米国のビジネスウィーク誌が、「株式の死」(The Death of Equities)と題した巻頭特集を掲載した。米国の株式相場は70年代中盤から長期低迷し、特集の時点でも先行きに明るさが見えない。この状況を「株式の死」と呼び、米国資本主義の危機に警鐘を鳴らした。  70年代初めには、ニフティ・フィフティ(素晴らしい50銘柄)と呼ばれる大型優良株に売買が集中した相場の活況が起こり、ダウ工業株30種平均は73年に1052ドルの最高値をつけたものの、74年にかけて5割近くも下げた。その後、ダウ平均は500ドルから1000ドルの往来相場を続け、80年代に入るまで73年の高値を上回ることはなかった。  しかし皮肉なことに、ビジネスウィーク誌の警告から日をおかず、米国の株式市場は長期にわたる上昇局面に転じる。  80年代の世界的な金融の自由化と、それに連動する世界同時株高。80年代の世界経済の変化は、間違いなくグローバリゼーションと大きな関わりを持っている。  グローバリゼーションとは、国の枠を越えて、ヒト、モノ、カネが移動することである。昔であれば、まずヒトが動き、次にモノが動き、最後にカネが動いた。しかし情報化の時代にはその順序が入れ替わる。まず、カネの世界が新しい時代へと動きだし、これにモノが続き、ヒトは最後についていく。この時間差がさまざまな摩擦を生み出し、結果としてバブルを発生させるのである。  80年代以降に世界を覆おおう不安定な社会の本質を、もっとも早く、もっとも正確に摘出し、それを構造的なものだと指摘したのは、スーザン・ストレンジの『カジノ資本主義』(Casino Capitalism)である。  ストレンジは『カジノ資本主義』の冒頭で、「国際金融システムを賭と博ばく場じょうと非常に似たものにしてしまった、何か根本的で深刻な事態が起きた」と問題提起したうえで、その金融カジノの特徴を描き出す。「自由に出入りができるふつうのカジノと、金融中ちゅう枢すうの世界的カジノとの間の大きな違いは、後者では我々のすべてが心ならずもその日のゲームに巻き込まれていることである」「金融カジノでは誰もが『双すご六ろく』ゲームにふけっている。サイコロの目がうまくそろって突然に好運をもたらすか、あるいは振り出しに戻してしまうかは、運がよいかどうかの問題である」。  彼女は同書のなかで、「現在の混乱は……ほぼこの15年間(71年以降)という短い間に急速に生じたこと」、そしてそれが、通貨、インフレ率、利子率、石油価格という「世界経済の機能を司つかさどる基軸価格のいくつかに同時に影響を及ぼしている」ことを指摘する。  では、こうした国際金融システムの腐朽は、いつ、いかにして始まったのか。ストレンジによれば、「1973年が、悠長な1960年代からせわしく上下するヨーヨーのような1970、80年代へと、雪ダルマがころがるように変化にはずみがつき始めた転換点」である。  それは「ドルの実質的な切下げと為替レートの決定を市場へまかせるという決定がなされた年」(変動相場制への移行)であり、「石油価格の最初の大幅な上昇の年」(第一次オイルショック)であった。そして原油価格の大幅な上昇の結果、貧しい国々が、巨額の経常収支の赤字を乗り越えて、「経済発展と経常消費をファイナンスするために銀行へ大きく依存するようになる年でもあった」とも言う。 国際金融システムの脆ぜい弱じゃく化か  71年8月15日、米国のニクソン大統領が、一方的に金・ドルの兌だ換かん停止を宣言する(ニクソンショック)。戦後の通貨体制(国際金融体制)は、米ドルを基軸通貨とし、その他の通貨がドルに対して固定レートを維持する固定相場制だった。米国の圧倒的な軍事力・経済力のもとで、各国が為替レートを維持し、自由貿易を推進するというブレトンウッズ体制である。その根本である金とドルを1オンス=35ドルで交換するという決まりが停止したのである。  引き金となったのは、日本と西独の奇跡の復興だった。米国の国際収支が赤字に転落したことで、金が流出し、金とドルの交換を保証できなくなっていた。また円やマルクとの為替レートも維持できなくなっていた。そもそも世界経済の拡大にともなって必要な通貨の量は増えていくのに、金の埋蔵量は増えないという根本的な矛盾が存在していた。通貨が金の価格を離れて自由になることで、金融政策は各国の力関係で決まる時代となった。  ニクソンショック後には、ドルを基軸に固定相場制を維持しようとスミソニアン合意が結ばれ、円は1ドル=360円から308円に切り上がる。  しかしスミソニアン体制もすぐに崩壊する。73年に変動相場制へと移行し、固定相場制の放棄は世界各国に及ぶ。このことは、第二次大戦後の世界経済を支配してきた米国がベトナム戦争で病み、その負担とリスクを他の先進国にも求めていくという提案でもあった。変動相場制の導入によって、通貨価値の変動が、各国の政策当局だけでなく、企業や国民生活すべてに及ぶ時代に入った。  73年のオイルショックは第四次中東戦争をきっかけに起きた。産油諸国の意図によって、1バレル3ドル台で安定していた原油価格が10ドル台に急上昇するという事態は、アメリカやヨーロッパを中心に出来上がっていた資本主義体制の変質を示していた。先進国だけで決定していた産業政策・金融政策を、産油国を含めた世界全体で考えなければならない時代の始まりだった。  ストレンジによれば、石油価格の問題は、「価格が高いということではなくて、むしろ価格が予想できず非常に不安定なこと」だった。これも現在に通じる問題である。  スーザン・ストレンジが『カジノ資本主義』の英語版を出版してから1年後の87年10月19日、ニューヨーク証券取引所でブラックマンデーの株価暴落が起こる。その10年後には97年のアジア通貨危機、そして約20年後の2008年にはリーマンショック、さらに16年には中国経済の停滞や、石油価格の下落に伴う資源国不安が、世界経済の新たな不安要因となっている。  世界の資本主義が金融によって溶解しつつあることをスーザン・ストレンジが80年代の半ばまでに鋭く見通していたことは、驚くべき先見性である。19世紀の資本主義についてマルクスが果たした役割を、20世紀後半のグローバルな金融資本主義において問題提起したのがストレンジだったと言ってもよい。  ストレンジは、金融システムがその機能自体のなかにリスクを内在しているという「システミック・リスク」の問題を、市場と国家との力のバランスの問題としてとらえた。そして、グローバリゼーションと技術変化の加速によって、金融が規制当局を出し抜いていくことが常態化する時代と考えた。金融当局が考えもしなかったような金融取引の形態や新しい信用の手段が「発明される」時代と考え、それを資本主義に内在する動態的なリスクととらえたのである。 レーガノミクスから生まれた「金融自由化」路線  こうした国際金融システムの脆弱化のなかで誕生したのが、レーガノミクスであり、サッチャリズムである。79年に誕生した英国のサッチャー政権と、81年に誕生した米国のレーガン政権は、それぞれ申し合わせたように、市場経済に基づいた「小さな政府」を志向し、政治的には保守主義を標ひょう榜ぼうする政権運営を選択した。  経済政策では、戦後、とりわけ60年代のアメリカ経済を支配してきたケインズ的経済政策が、ミルトン・フリードマンを中心としたシカゴ学派のマネタリズム的な経済政策へと移り変わりつつあった。  しかし80年代の世界の転機やバブルを考えるときに、ケインズ主義かマネタリズムか、保守主義かリベラリズムか、グローバリズムか一国主義か、といったような単純な二項対立で物事を考えると、状況を見誤ることになる。  レーガノミクスとは、本来なら市場原理と民間活力を重視して、小さな政府を目指す政策だったはずである。しかし、実際には社会保障費を削減する一方で軍事費を拡大することで政府支出を増大させ、同時に富裕層を中心に大幅な減税を行なって景気刺激を図るという政策だった。経済学者の伊い藤とう修おさむがいち早く喝破したように、「大幅減税と財政支出の増大の結果、反ケインズ主義といいながら、典型的なケインズ的な需要刺激策だった」という指摘は正しい。またスタグフレーション(不況下のインフレ)の弊害を抑えるために、当初はドル高政策を明確に前提としていた。  レーガンの破天荒ともいえる政策列挙は、サプライサイド(供給側)の経済学に基づいているといわれた。ケインズ主義が需要に着目するのに対し、供給(民間)に着目し、減税や規制緩和によって供給力を上げることで経済成長を達成できるとする主張である。その根拠として取り上げられたのがラッファーカーブだった。  アーサー・ラッファーによって主張されたラッファーカーブは、税収を最大化する「最適な税率」が存在するとして、現在の税率がそれを上回っている場合には、減税によって税収を最大化できるという理屈である。経済学者の間では、学問的な根拠は全くないと見なされており、80年の大統領選挙のときから、同じ共和党のジョージ・ブッシュ(父)にさえ、ブードゥーエコノミクスという激しい批判を受けた。  しかし、経済学がブードゥー(呪じゅ術じゅつ)かどうかの問題ではなかった。政治が関与する政策はいつだってブードゥーとしての要素を孕はらんでいる。レーガノミクスの真の問題は、一国の、つまり米国の問題として提起されたレーガノミクスが、グローバリゼーションとカジノ化(金融化)によって、世界のリスクに直結するようになったことである。  大胆な経済政策の結果、アメリカの経済規模は拡大したものの、貿易赤字と財政赤字の増大によって「双ふた子ごの赤字」を抱えることになる。  レーガノミクスの最大の意味は、経済学が経済学としての独立性を失い、政治経済学の時代を迎えたことである。そしてレーガンはみずからがかかげる政治経済学を、イデオロギーとして他の国々にも広げ、強要した。サッチャー政権も新保守主義的な市場主義を掲げていたこともあり、レーガノミクスとサッチャリズムというセットが、アングロサクソン的な資本主義のモデルとして、日本や西独に対して押しつけられることになる。  82年11月に発足した中曽根康弘政権はそれを受け入れ、みずからの改革の基盤に据えた。あるいは戦後の日本がGHQの政策に対してそうしたように、制度や考え方を受け入れつつ、その中身を日本的に換骨奪胎することを考えていた。しかし、制度や考え方を受け入れることは同時にグローバル化した市場の壮大なリスクも受け入れることだということを、中曽根を含め政治家や経済界のリーダー達が十分に理解していたとは思えない。現在の安倍晋三政権がかかえる問題でもある。  82年11月から87年11月までの第1次から第3次にわたる中曽根内閣は、たまたまレーガン政権と任期が重なり、「ロンとヤス」と呼ばれるような政治的友好関係を強調し、日米同盟を名実ともに強化する内閣だった。  したがって、レーガンの政治経済学でありイデオロギーでもあるレーガノミクスを中曽根政権が受け入れるのは当然のことだった。政治経済学というより、「政経軍(政治・経済・軍事)」が不可分の時代の日米同盟の始まりだった。  80年に自動車の生産台数で、そして81年にはDRAMの生産量でも日本がアメリカを抜いて世界一位になったことで、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本型経営が称賛される一方、日本が脅威として見られ始めた時期でもあった。なかでも日本の閉鎖的な資本市場・金融市場は、海外から大きな批判を浴びていた。金融の自由化と、貿易黒字の縮小が日本の課題となった。  83年11月のレーガンの初来日では、それらが論点になることは明白だった。日本は、金融の自由化を加速することを決め、84年5月には、①大口預金金利の自由化、②外貨の円転規制の撤廃、③外国銀行の信託業務進出──など大きな方針をまとめることになる。  スーザン・ストレンジは、96年に『国家の退場』、98年に『マッド・マネー』を出版し、グローバルな金融資本主義に対する危機感を強めながら、同年に亡なくなった。ストレンジは『カジノ資本主義』の最終章「カジノを冷やすこと」のなかで、「故障してコントロールできなくなった金融システムを管理し、安定化することは、世界的な問題である。しかし、解決は各国によるものである」と述べている。  それは、グローバル化したバブルが起きた時には、沈静化する有効な解決策はない、と言っているようにも聞こえる。 4 大蔵省がつぶした「野村モルガン信託構想」  これほど刺激的かつ奇妙なスクープの経験は、長い記者人生でも最初にして最後だった。バブル前夜、そして金融自由化前夜の1983年7月5日付の日本経済新聞朝刊である。 「世界最大の信託銀行であるモルガン・ギャランティ・トラスト(モルガン銀行)と野村証券は、わが国に信託会社を共同で設立することで合意に達した。両社はすでに基本合意書に調印し、大蔵省に認可を求めて内申請した。戦後わが国で信託業法に基づく信託会社を設立しようとするのは初めて」  超ちょう弩ど級きゅうのニュースと言ってよかった。金融・資本市場では、間接金融をになう銀行と直接金融をになう証券会社が角を突き合わせていたが、この金融・資本市場で第3の成長分野と呼ばれていたのが資産の運用や管理をになう信託業務だった。世界の市場では、多くの金融機関がプロフェッショナルな運用の覇権を競っていたが、そのなかの自他ともにみとめるナンバーワンがモルガン銀行だった。モルガン銀行は金融財閥JPモルガンの銀行部門である。  日本では年金の運用は、公的年金も企業年金も、信託銀行と生命保険会社だけに認められていた。そして高齢化社会を迎えるなかで、年金市場が将来の急成長市場であることははっきりしていた。  世界最強のモルガン銀行が、本格的に日本の年金市場を目指し、信託業務に参入する。その合弁相手は、年金運用の特権を認められた信託銀行でも生保でもなく、またモルガン財閥ともっとも近い関係にあると信じ込んでいた日本興業銀行でもなかった。野村証券という大蔵省や興銀から「株屋」と蔑さげすまれていた証券会社だった。これまでの大蔵省の金融行政の発想からは、絶対に生まれない戦略だった。  野村証券グループと米国の金融財閥JPモルガンが日本に合弁で信託会社をつくる話は、82年9月から極秘裏に進んでいた。83年6月、モルガンのプレストン会長と野村証券の村むら田た宗むね忠ただ会長のあいだで、基本合意書に調印する。  当時、米国のレーガン政権は、日本に金融市場の開放と自由化を強く求め始めていた。83年秋には、レーガン大統領が来日し、金融自由化を強く求めることが予想されていた。現実に、その年末から「日米円ドル委員会」がスタートして、日本の金融自由化の火ぶたが切って落とされる。  受けて立つ中曽根康弘総理と竹たけ下した登のぼる大蔵大臣は、いったい何を開放政策の目玉として差し出すかに苦慮していた。その危機感は、大蔵省の官僚の論理とは質の違うものだった。そこに野村証券のつけ込む余地があった。野村証券の田淵節也社長は中曽根と近く、信託会社構想の責任者だった野村投資顧問の相あい田だ雪ゆき雄お社長は、竹下登とは戦前に早稲田高等学院で机を並べた仲だった。野村証券のねらいは、この構想をレーガン来日にぶつけ、保守的な大蔵官僚の決裁を飛び越えて、一気に政治決着をはかることにあった。  当初、われわれはこのニュースをレーガンが来日する秋口にぶつける考えだった。しかしモルガン銀行のプレストン会長と野村証券の村田宗忠会長が、基本合意書調印の前日の6月14日に竹下蔵相に会って、信託会社の設立計画を説明し、関連文書まで提出していることがわかり、事態は急変した。大蔵省が、官僚レベルでこの構想をつぶしにかかることは明らかであり、すでにその動きが出始めていた。紙面化することを決めたのが、7月4日の夜である。基本合意書を確認したうえで、野村証券の田淵社長と竹下蔵相の確認をとった。完かん璧ぺきなスクープ原稿だった。  記事を掲載すると、信託銀行のトップである住友信託銀行の櫻さくら井い修おさむ社長から「話が聞きたい」と内々に打診があった。「私はモルガンと野村が考えている信託会社に敬意を表している。大蔵省の指導で、貸付信託や金銭信託などという信託まがいの金融商品を扱っているうちに、われわれ信託銀行は、本当の信託の心を忘れてしまった」と反省を込めてつぶやいた。  また日本興業銀行の中なか村むら金かね夫お常務(のちに頭取)は「モルガンが日本で何かを考える時には、当然、興銀に相談があるものと思い込んでいた。そういう時代ではなくなったと知ったことが最大の収穫であり、同時にショックだ」と歎なげいた。  一流の人物は、たとえ利害の対立する問題であっても、その本質を捉とらえ、しっかりとした考えを示すことができる。この二人がそうだった。しかしこの二人も、のちに櫻井はリクルート事件で、中村金夫は尾上縫事件にからむ東洋信金事件の責任をとって、ともにトップの座を退くことになる。  大蔵省の反応は違った。当時、銀行局長だった宮みや本もと保やす孝たかが96年に語ったコメントがある。「強く印象に残っているのが野村・モルガンによる信託会社設立構想である。83年6月、モルガンのプレストン会長と野村証券の村田宗忠会長が、大蔵省に竹下登蔵相を訪ねてきた。合弁の信託会社を日本に設立する計画を蔵相に説明するのが目的で、私たち(大蔵省の官僚)には寝耳に水の話であった」。  日本での信託業務は、信託専業の7銀行と大和銀行に限られていた。宮本は「年金信託はいずれ資産運用ビジネスとして巨大な市場に成長すると見ての計画でその意味で慧けい眼がんといえた」と認める。しかし「蔵相に直接、計画を持ち込むという強引なやり方であった」と牽けん制せいする。  では、野村証券とモルガン銀行に、竹下蔵相に「直接計画を持ち込む」以外に実現の手立てはあったのだろうか。  宮本は言う。「戦後40年にわたって存続してきたわが国の金融制度を根幹から覆くつがえすものであり、金利の自由化ですらまともにスタートしていない時点で、いきなり制度問題を持ち出されても、到底認めることはできない相談であった」。  もともと認めるつもりもない「案件」であるにもかかわらず、何事か考えたふりを装よそおい、頭越しで大臣に話を持ち込まれると、過敏に反応する。「悪代官」と「農民」の関係そのものだった。 野村と大蔵省銀行局の長い対立 「信託」会社へのこだわりは、戦前の野村財閥からの遺伝子だった。野村財閥は、戦前から創業者野の村むら徳とく七しちの情熱で「野村信託」という、銀行ではない信託会社を営み、独自の信託業務を作り上げてきた。戦後は大蔵省の指導によって、その業務を大和銀行(戦前の大阪野村銀行)が引き継ぐことになる。  この信託業務をめぐる対立で、大蔵省の銀行行政はかつてない屈辱を味わうことになる。54年(昭和29年)大蔵省は普通銀行の業務と信託業務の兼営を原則として認めないという信託分離政策を導入する。大蔵省による銀行の専門化・細分化政策の総仕上げでもあった。  しかし、大和銀行は寺てら尾お威たけ夫お頭取のもと、大蔵省の方針を断固としてはねつけた。信託分離政策は行政指導ではあっても、法律的な根拠を持つものではない、というのが大和銀行の見解だった。  その後も長く続く大蔵省の行政指導に対して、大蔵省の監督下にある大和銀行が「ノー」と言ったのである。この結果、信託免許を持つのは、信託専業の銀行(信託銀行)と大和銀行、という奇妙な体制が55年(昭和30年)からスタートする。大蔵省にとっては今も語りつがれる屈辱の一コマだった。その代償として、大和銀行はさまざまな分野で大蔵省にいじめ抜かれる。  同じ野村財閥の遺伝子を背負い、戦後に証券業務をになったのが野村証券である。野村証券も、野村徳七以降の歴史のなかで、信託業務に関心を持ち続けていた。  野村グループの信託業務への熱い思いは、昭和30年代に入ると、「東洋信託銀行」という独自の信託銀行を、野村証券の100%の影響下で設立するという構想に結実する。  しかし、野村証券の希望はことごとく大蔵省銀行局によって水を差され、紆う余よ曲きょく折せつの末、三和銀行、神戸銀行、野村証券の三社を母体とした新会社を59年(昭和34年)に設立することになる。それでも発足にあたって野村証券は、当時の若手の逸材を惜しげもなく新設の東洋信託銀行に派遣し、その本社を日本橋の野村証券ビルに野村証券と同格扱いで、その後も長く置き続けた。  野村証券の信託業務への意地をみせつけた行動だった。  野村証券にとって「信託業務、それも信託会社というものへのこだわりはいわば『血』であった」と相田雪雄は振り返る。日本の金融界に「信託会社」という概念を確立したいという時代認識もあった。「硬直的な日本の金融行政を揺さぶってやろうという気持ちが強かった」。  相田は野村証券の国際担当として副社長まで上りつめ、あらゆる国際戦略に関与した。当時野村証券の社長だった同期の田淵節也とは、気質も事の進め方も違っていた。しかし、この信託に対する思いと、それが生んだ野村・モルガンによる信託会社構想については、まったく意見の相違はなかった。  相田の思いは、言葉どおりに受け取れば、55年以来の大蔵省の信託分離の銀行行政が、その本質において誤りであると言っているに等しかった。信託業務は信託会社が取り扱う問題であり、大蔵省が銀行の周辺業務として行政指導で取り扱う問題ではない、という問題提起だった。  ニュースが報道されてから、野村・モルガン問題は奇妙な沈黙のなかで棚ざらしになる。大蔵省の徹底した否定と誘導によって、取材記者でも問題の本質を理解している者は少なかった。大蔵省のかたくなな拒絶の姿勢が、公平で透明な議論をはばんでいた。取材するマスメディアには、「野村証券だけは絶対に許さない」という銀行局幹部のつぶやきが、時折、耳に入るだけだった。  83年の秋口になると、米国の財務省がモルガン銀行と野村証券の合弁による信託会社立ち上げについて、日米の相互主義の原則に沿って認めるように要望していることが明らかになる。大蔵省は大おお場ば智とも満みつ財務官を米国に派遣して、11月のレーガン来日後に設置が決まる予定の「為替・金融資本市場委員会」(仮称・のちの日米円ドル委員会)で、外国銀行に対して個別に信託業務への参入を認めることで、野村・モルガンの信託参入に代替することを水面下で画策する。  日米間の政治問題にまで発展した野村・モルガンの提携問題は、84年4月、宮本銀行局長が野村証券に出向き、田淵節也社長に「設立は認められない」と通告して終わる。翌月、大蔵省は①大口預金金利の自由化、②外貨の円転規制の撤廃とともに、③外国銀行の信託業務への単独進出を認めるという決断で、米国からの批判に応こたえる。  そして86年には投資顧問業法が成立して、資産運用業者としての投資顧問業に取引一任勘定(運用の内容を顧客から一任された取引)が認められる。信託でも生保でもない「一任勘定による運用のプロ」が新たに誕生したことになる。公的年金、企業年金の運用への道は徐々に投資顧問業界にも開かれていく。一任勘定の投資顧問会社は外国勢にも認可される。  そして、信託銀行も徐々に国内の他業態にも認められ、野村信託銀行もバブル崩壊後の93年に到いたって認められる。  野村・モルガンの信託会社を認めないという大蔵省の意地によって、判わかりやすくいえば、野村証券を排除するという一点で、外銀信託の参入が実現し、さらには投資顧問会社に一任勘定を認可する内容を含んだ投資顧問業法も、大蔵省の考えていた日程よりも早く実現した。  銀行行政に活を入れて、金融自由化を加速した点では、野村・モルガンの合弁構想が果たした役割は実に大きかった。その一方で、大蔵省の野村証券への恨みは深く刻み込まれることになる。 「野村証券はやりすぎたな」。のちに次官となる大蔵省の切れ者、山やま口ぐち光みつ秀ひでが私に言った言葉は忘れられない。 二つのコクサイ化  野村証券は80年代に入り、急速に存在感を強め、大蔵省からも銀行からも、警戒感をもって見られるようになっていた。それは「二つのコクサイ化」が日本の金融市場の自由化を加速し、事業会社(企業)の間接金融(銀行)から直接金融(証券会社)へのシフトを加速したからである。二つのコクサイ化とは「国債化」と「国際化(グローバル化)」である。  一つ目の「国債化」は、70年代の中頃から顕著になる。国債の大量発行が始まるのは、第一次オイルショックによって財政の赤字が拡大した75年度以降のことである。この年、国債の発行額は5兆円を上回り、80年度には14兆円を超す。さらに80年代の半ばには100兆円を上回る水準に達する。  金融自由化の流れを決定づけたのは、79年2月に上場された表面利率6・1%の国債、通称ロクイチ国債の大暴落だった。米国の急激な短期金利の上昇を受けて、日本の公定歩合も78年3月の3・5%から、80年3月には9・0%にまで急上昇する。  ロクイチ国債は、公定歩合3・5%の時に発行された9兆円にのぼる巨額の起債だっただけに、ひとたまりもない。79年の2月時点での流通利回り6・78%は、80年4月には12・4%にまで上昇し、市場の価格は100円から74円45銭という安値を付ける。  固定した条件で発行された国債を日銀や銀行が引き受けるというこれまで通りのやり方では、もはや大量の国債発行をさばききれなくなっていた。国債の大量発行時代には、市場での国債消化が不可欠だった。市中消化を促すには、発行条件を市場の実勢に近づけ、売却制限を緩和し、発行条件の多様化をはかる必要がある。本格的な金融自由化である。  それは、大蔵省が戦後維持してきた、長期信用銀行と都市銀行を頂点とした、金融のヒエラルキーや、信託会社の機能を信託銀行として銀行行政のなかで読み替える機能の限界を意味していた。なによりも実勢より低い長短金利を業態ごとに管理して、新規参入を極力抑え、そのかわり金融機関はつぶさない。大蔵省の行政指導のもとで維持してきた、銀行の不倒神話の条件の変質を意味していた。  大暴落の経験のなかで、マーケットは新しいものに生まれ変わる。東京店頭市場の公社債売買高は73年の20兆円強から、85年には2160兆円にまで拡大した。そのうち国債の売買高が80%を占める。国債の大量発行が、公社債流通市場を生み出したのである。  二つ目のコクサイ化は「国際化」である。  70年代の半ばから80年代の半ばにかけて、日本の資本市場の国際化が急展開する。日本の国力の拡大と外為法改正による為替取引の自由化がきっかけだった。特に、80年末の外為法改正はこうした流れの分岐点だった。対日債券投資や、対外債券投資はそれぞれ75年当時には数億ドルだったが、80年代初めには数十億ドルと10倍規模に達する。  日本の金融市場の国際化を示したのが、円建て外債の本格化だった。77年には発行額4500億円と、それまでの累るい計けいの円建て外債の発行額を上回り、85年には年間の発行額は1兆円を超す。また転換社債(CB)やワラント債(新株予約権付社債)の発行額も急増する。転換社債の発行額は75年には1000億円だったのが、84年には1兆3000億円を上回った。  国内では規制にしばられ、発行条件を強制されている事業会社が、引受証券会社と一体となって、海外で自由な条件のもと資金調達を謳おう歌かした。銀行は銀行で、証券との垣根を規定した証券取引法65条の尻しり抜けを海外で実現するために積極的に証券業務に参入する。銀行と証券会社が海外を舞台に、証券業務でぶつかり合う時代の始まりだった。  事業会社は、海外でのワラント債や転換社債の発行、そして国内の転換社債発行を通じて、銀行離れを推し進め、みずから有利な発行条件や資金運用を模索する。「財テク」の時代の始まりでもあった。  70年代に入って、時価発行増資の興隆と、それに伴う株式持ち合いの強化で存在感を高めた野村証券は、70年代の後半から80年代の前半にかけて一段と力を増し、国内の銀行からは実力以上に脅威をもって見られ始めていた。  そこに、野村・モルガンの信託会社構想が表面化したのである。金融・資本市場の第3の分野として注目される成長市場に、政治力を使って傍若無人に踏み込んできた乱入者に対して、大蔵省の官僚たちがどういう態度をとるかは、はっきりしていた。竹下蔵相の対米関係を考えた認可に前向きな姿勢を封殺したのは、大蔵省銀行局であり、戦後の銀行行政だった。  84年の4月末、相田雪雄は大蔵省の銀行局審議官だった行ぎょう天てん豊とよ雄お(のちにミスター円と呼ばれる名財務官)に「信託会社の設立は認められない」との最終見解を聞かされる。国際派として、野村・モルガン構想についても、一定の理解を示してきた唯ゆい一いつの大蔵官僚が行天だった。その行天による最後通告だった。  84年6月、相田はニューヨークのモルガン本社にプレストン会長とウェザーストーン副会長を訪ね、プロジェクトの正式断念を伝える。  会談で相田は「モルガンは(世界的な金融革命のなかで)今後、信託、証券、銀行業務のどの分野に力を入れていくのか」と質問する。ウェザーストーンの答えは「我々は銀行でもない。証券会社でもない。我々はただJPモルガンである」というものだった。相田はその志と気概に強い感銘を受け、モルガンを信託業務の合弁先に選んだことを、改めて誇りに思ったという。もちろん、日本の細分化された金融行政ではありえない組織形態でもあった。  バブルの前夜ともいえるあの時期に、野村証券とモルガン銀行の合弁の「信託会社」が設立されていたら、信託銀行はバブルの時代に、どう行動しただろうか。そして大蔵省は特定金銭信託(特金)やファンドトラスト(ファントラ)という信託銀行がからむ財テク商品に、どう処しただろうか。  信託銀行は80年代後半、信託業務の仕組みを活用した特定金銭信託を使って、投資顧問会社や証券会社、生命保険会社から運用を受託して、大きな収益源とした。また、信託銀行自身が運用するファンドトラストを開発し、財テク資金を集めてみずからバブルに加担した。  証券会社はのちにみずからが運用する「営業特金」を開発し、利回り保証をして契約を集めるが、ファントラもそれと同様、利回りを保証した契約がほとんどであり、バブル崩壊では巨額の損失を被こうむった。  大蔵省が80年に認めた簿価分離の方式(企業が株式を買いやすくするための税制優遇措置)が、特金・ファントラを生み出した。その意味では、信託業務こそが運用なき財テクの時代を象徴するものだった。そして、特金・ファントラを生み出し、バブル崩壊まで提供し続けたのが信託銀行だったのである。 5 頓とん挫ざした「たった一人」の金融改革  戦後日本の金融行政は、護送船団方式と呼ばれた。金融機関が一つもつぶれないようにする代わりに、箸はしの上げ下ろしまで指導する。金融のあらゆる許認可権を握る大蔵省の権力は絶大だった。また国家予算の編成権をもつことで他省庁に対しても圧倒的に優位な立場にあった。  大蔵省がその権力と組織内部の求心力を併せ持っていたのは、いつ頃までのことだろうか。間違いなく1980年代のバブルの時代がその分岐点となっている。そして大蔵省が共同体としてのきしみを初めて垣かい間ま見みせたのは、バブル前夜の80年代前半だった。  佐さ藤とう徹とおるという大蔵官僚がいた。83年6月に証券局長に就任し、85年1月、肝臓癌がんで53歳にして没する。わずか1年半あまりの証券局長だった。しかし、この間の仕事ぶりは鬼気迫るものがあった。  83年4月の銀行による国債の窓口販売、そして翌年の国債のディーリング業務への参入と、銀行と証券会社の攻防によって、二つの業界の境界線を設定した証券取引法65条の垣根は低くなりつつあった。  83年11月、レーガン米大統領が来日し、中曽根康弘首相との会談で「日米円ドル委員会」の設置で合意する。これを受けたリーガン財務長官と竹下登蔵相との会談で、「日米共同円・ドル・レート、金融・資本市場問題特別会合作業部会」という、何とも長ったらしい名前の部会がスタートする。要するに、為替レートに関して日米の問題意識を共有し、同時に日本の金融制度について抜本的な自由化を迫ろうという米国の意図が明白になったのが、レーガンの来日だった。そして半年後の84年5月に、竹下蔵相とリーガン長官が共同議長を務める「日米円ドル委員会」の合意文書がまとめられる。  この合意文書を実質的にまとめた上記の作業部会(アドホック委員会)に、日本側を代表して大場智満財務官とともに、佐藤徹も証券局長として参画した。  佐藤がこうした時代の空気のなかで明確に認識し、実行に移そうとしたのは、銀行は銀行局、証券会社は証券局といった業者行政の枠組みで行政を進めるのではなく、「市場行政」として、それも国際化の流れを意識して進めることだった。  彼は「証券局を資本市場局とする」と局内で明言し、一部に「資本市場局」というボードを掲げた。しかし大蔵省における証券局の地位は、証券市場の成長により徐々に上がってはいたものの、決して高いものではなかった。主計局、主税局、理財局、銀行局、そして国際金融局に次ぐ地位を、関税局と争うような存在だった。  証券局は、64年6月に、当時の田中角栄大蔵大臣の鶴つるの一声で、理財局証券部から格上げされてできた局であり、それ以降、大蔵省に新設された局はなかった。金融行政をつかさどる部門としては銀行局があったが、銀行局の格は高く、銀行局と証券局の違いは、ちょうど金融界における銀行と証券会社の格差と同じようなものだった。格下の証券局が市場行政に口をはさむことに、お門違いとの批判も出ていた。  しかし佐藤はひるまない。〝資本市場局〟としての証券局の政策の最優先課題に、「三局合意問題の解決」と「社債の無担保化」を掲げる。 「三局合意」とは、「日本の銀行が支店を持っている国では、その銀行の現地法人を認めない」という、74年に大蔵省の銀行局、証券局、国際金融局が合意したルールのことである。当時、収益力や顧客との関係において圧倒的な優位にあった銀行に対して証券現地法人を認めれば、大蔵省の指導を飛び越え、現地の法律に基づいて自由に証券業務を行なってしまう。それを防いで、証券会社の海外における活動を守ろうという意図があった。  資本市場の国際化が進展するなかで、銀行と証券会社のつばぜり合いがはげしくなっていた。また、住友銀行がスイスのゴッタルド銀行を買収して三局合意の尻抜けをはかるなど、さまざまな形の証券業務参入が繰り広げられ、銀行から廃止の要望が出るとともに、三局合意は有名無実化しつつあった。  今ひとつは、銀行を巻き込んで、社債の無担保化を実現しようという構想だった。当時、銀行界は日本興業銀行を頂点とした八行会と呼ばれる社債の受託組織が、有担保主義による社債の受託業務を取り仕切っていた。公募社債の発行の許諾権を握る八行会は、証券業務における銀行優位の象徴であり、大蔵省もその権威に依存して、さまざまな政策を実現するパイプ役として使っていた。  社債の担保は、工場財団などの名目的な担保物権はあっても、最終的には土地価格の評価に行き着く場合が多い。有担保主義こそ、直接金融、間接金融を問わず、土地本位制の別名ともいえた。この土地本位制にメスを入れることが日本の金融システムの変革に必要だと、佐藤にはわかっていた。  証券界、とりわけ野村証券が推進しようとする無担保社債への流れと、八行会はことあるごとに対立していた。しかし国際化が進むなかで、社債の無担保化の流れは押しとどめようもなかった。大蔵省銀行局と日本興業銀行を頂点とする銀行は、それを自分たちのペースで押しすすめることにこだわっていた。  無担保の社債を発行するには、格付け会社による「格付け」を受け、それによって社債の発行条件(金利)を決めなくてはならない。当時、海外では、ムーディーズ社とS&P(スタンダード・アンド・プアーズ)社がこの世界で圧倒的な力を持っていたが、日本では日本経済新聞社を中心とした日本公社債研究所が、独自に社債の格付けに参入していた。佐藤の構想は、これとは別に、証券界と間接金融をリードしてきた長信銀三行と都銀七行が参加してオールジャパンの格付け機関を設立する構想だった。  サムライ格付け会社構想である。圧倒的なパワーを持つ銀行を巻き込むことなしに、金融自由化は進まないとも考えていた。 興銀を「投資銀行」に  三局合意の撤廃にしても、証券界と受託銀行を巻き込んだ格付け機関の新設にしても、国内の既得権益を調整するだけでは、大蔵省の力をもってしても実現できない。日米円ドル委員会によるアメリカの圧力が必要だった。また、証券局が証券会社の利害を代表する立場でいる限り話は進まない。佐藤は証券局長でありながら、銀行の首脳のもとを行脚あんぎゃして金融自由化の未来を説得することに専念した。  佐藤の最大のターゲットは、興銀だった。受託八行会のリーダーであり、日本の証券発行を事実上大蔵省にかわって取り仕切ってきた興銀を、日本型のインベストメントバンク(投資銀行)につくり変えることが、佐藤の真意だった。  佐藤は興銀の頭取、中村金夫と繰り返し水面下での会談を続ける。佐藤と中村の会談の内容は、突き詰めれば、興銀が野村証券と同じ土俵で戦う「証券会社」になる道だった。日本的な「銀行」という冠をつけない証券会社になることが「投資銀行」への近道でもあった。そうでなければ、佐藤が権限を持つ、証券局の権限の範囲で事を進めることはできない。佐藤には、銀行局の案件になった途端、この話が進まないことはわかっていた。  興銀がもしも銀行という名前を捨てる覚悟があるのなら、「あらゆる証券業務を内外でやってもらってもいい」とさえ、佐藤は言っていた。  しかし、1902年に日本興業銀行法によって設立され、戦犯銀行といわれながら戦後も存続し、長期信用銀行のトップに君臨していた日本興業銀行のプライドは半はん端ぱなものではなかった。既存の証券会社と同レベルの会社になることにはどうしても同意出来なかった。なによりも「銀行」という名前を捨てる決断ができなかった。交渉は難航する。  激務は佐藤の肉体をむしばんでいった。新格付け機関の合意をまとめ上げたのが84年10月12日、この頃から徐々に体調の不良を訴えるようになる。翌年1月に入院し、同月31日に亡くなるまで、債券先物市場創設の実現を最後まで気に掛けていたという。入院中に病を押して京都まで足を伸ばし、好物のスッポンを楽しんだ。死を覚悟の上での行動という声が周囲からあがった。  佐藤の死の報を聞いて、興銀の中村金夫は「彼が生きていたら興銀が変わる道を探れたかも知れない」と天を仰いだ。後年、興銀がバブルの海にあえぎスキャンダルにまみれたときにも、「バブルの前の83~84年が興銀にとって最後のチャンスだった」と振り返ることになる。  三局合意の廃止も格付け機関の新設も、佐藤の死によってなし崩しになる。何よりも85年のプラザ合意以降、そしてバブルの時代の到来によって、土地の値上がり益を収益の柱に据えた銀行が、有担保主義(=土地本位制)の見直しに本気で取り組むムードはなくなってしまう。  大蔵省銀行局は、住友銀行と平和相互銀行の合併のような不良金融機関の救済のためには動いても、世界の金融革命のなかで日本の銀行をどうしていくのかといった大きな構想を描こうとはしなかった。そういう雰囲気もまったくなかった。 昭和29年組の絆きずな  佐藤徹がみせた凄すさまじい変革のパワーは、証券局長としての職務や、金融自由化に対する揺るぎない信念に基づくものだけではなかった。佐藤は他の大蔵官僚のエリートたちと同様に、あるいはそれ以上に保守的な大蔵官僚でもあった。  東京大学法学部を卒業後、54年に大蔵省に入省、主計局総務課を皮切りに、課長補佐、主査、主計官をへて、主計局法規課長となる。典型的な大蔵省の主計局エリートである。法規課長から主計局長へ、さらには事務次官のコースもありうるポストだった。彼自身、この時点では官僚のトップである次官の座を夢見る一人だった。しかしその後、証券局総務課長に回り、関東信越国税局長、理財局次長のあと、証券局長となった。  同期には、窪くぼ田た弘ひろしがいた。同じ東大法学部卒であり、親友でもある。主計局のポストや周囲の扱いで、彼が自分より半歩前にいるとわかったとき、佐藤はこれに従った。「窪田が前にいるのなら、彼を盛り立てて次官にする。私は脇わきに回る。同期の昭和29年組(1954年入省)から次官を出す。その役割分担に何の迷いもなかった」。  ところが窪田は次官になれない。29年組からは次官が出ない、と思わせる人事が83年にあった。  佐藤は動揺する。同時に、理不尽さを感じる。「同期に次官の出ない世代の空むなしさや悲しさが解わかりますか。次官だけじゃない。局長だけじゃない。あらゆる段階の同期が、割を食うんです」。佐藤が絞り出すような声で語ったことがある。  理不尽な思いを、佐藤は最も尊敬する先輩であり、次官OBでもある長なが岡おか実みのるにぶつける。彼は大蔵省のドンと呼ばれていた。「徹てつ、すっこんでろ」。長岡に激しく痛つう罵ばされた。長岡は「同期の処遇だけではない。大蔵省の人事にはもっと大きな秩序もあるんだ」ということを伝えたかった。 「自分が次官の座を取りに行く」。佐藤は証券局長というポストでありながら、大蔵官僚としては常識的にはあり得ない発想で仕事に向かい合う。それは肉体の限界を超えた挑戦だった。  佐藤が描いた興銀改革の先には、もはや時代遅れになった日本長期信用銀行や日本債券信用銀行をふくめた、長信銀のあり方全体を問い直す狙ねらいがあった。しかしそれは銀行局の仕事であって、格下の証券局が口を挟むことではないといわれかねない。  だからこそ市場を通じた改革が必要であり、証券局が「資本市場局」になることが必要だったのである。佐藤個人の評価は、証券局長としての職務を通じて、間違いなく上がった。「証券局長で終わる人材ではない。理財局長に、そして場合によっては(次官に次ぐポストである)国税庁長官になってもおかしくない」との声も出始めていた。あと少し時間があったなら、と思わないでもない。しかし、「佐藤を次官に」という声は、ついに聞かれなかった。  それは、大蔵省という組織の秩序を超えた望みだった。  同期の窪田弘は、主計局畑を歩み続け、官房長、主計局長のポストを通らずに理財局長に転じ、国税庁長官になる。もちろん事務次官にはなれなかった。人格識見にすぐれ、群れない人だった。  窪田の人生はその後、バブルの時代とその後遺症に翻ほん弄ろうされる。政府系の金融機関の副総裁を務めたあと、93年にバブル崩壊で多額の不良債権を抱える日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の頭取に就任し、会長となる。そして、99年7月、窪田は証券取引法違反で逮捕され、2004年5月、東京地裁で懲役1年4カ月の有罪判決を受ける。  窪田を知るものは誰もが理不尽と感じる逮捕であり、有罪判決だった。その理不尽な責めに耐えながら、09年12月に最高裁判所によって二審判決を破棄して差し戻す判断が下り、11年8月30日、東京高裁が無罪判決を下して、判決が確定する。前後して、やはり最高裁判決で大おお野の木き克かつ信のぶ日本長期信用銀行(現新生銀行)頭取の無罪も確定する。  こうして、バブル前夜に佐藤徹が構想した長信銀改革は、興銀がみずほ銀行の合併に加わって普通の銀行となり、長銀、日債銀は壮大な国費投入のはてに民間銀行となるという形で決着する。  そして98年6月、大蔵省から金融行政部門を分離して金融監督庁(2000年に金融庁に)が生まれ、太だ政じょう官かん時代以来の名称であり、戦後のGHQによる統制もくぐりぬけた大蔵省の名称も、01年には財務省に変わる。  もし佐藤徹が生きていたなら、そして大蔵省特有の年次バランスを抜きに考えたなら、初代の金融庁長官にもっともふさわしいのは佐藤徹だったかもしれない。しかし佐藤はこういうに違いない。「冗談じゃないよ。財務省ではなく大蔵省の次官なら受けてやってもいいが。でも窪田がいれば次官も窪田にゆずるよ」。  窪田は13年1月31日、都内の病院で亡くなる。29年入省者の人事についても、日債銀事件の不当逮捕についても、その理不尽さについて何も語らずに逝いった。それが官僚の道であるとでもいうように。バブル前夜の佐藤徹の壮絶な死から、バブルの時代をはさんで28年の歳月が流れていた。 6 M&Aの歴史をつくった男  1980年代の後半には、バブル紳士たちによる企業の買い占めが跋ばっ扈こするが、そうした中に一人、まったく違う立ち位置の男がいた。日本にまだM&Aというものが根付く前から果敢なチャレンジを続け、日本の体制に風穴を開けて、M&Aの歴史をつくった高たか橋はし高たか見みである。  幻の原稿の下書きメモが残っている。83年の6月か7月に、私がしたためたものだ。 「日本初のTOB    ミネベアが蛇の目ミシンを買収      公開買い付け代理人はメリルリンチ」  日本の証券市場にとっても、企業社会にとっても、転機となるニュースだった。日本におけるTOB(Take over bid)は71年に証券取引法の改正によって「株式の公開買い付け」制度として導入されたが、経営権の取得に到るようなTOBは一度も実現していなかった。  メインバンク制と安定株主の構図のなかで、いくら企業がTOBを行使しようと考えても、経営支配に必要な株数を、合理的な価格で取得することが不可能な状況が続いていた。とりわけ、メインバンクも主幹事証券会社(株式上場時の業務を取り仕切る中心的な証券会社)も、企業との関係においては、買収される企業の側の「与党」を演じており、敵対的な買収を推進するような決断は、なかなかできなかった。  そもそも、その壁を突き破るような企業家精神に富んだ経営者が日本にはいなかった。  それに挑んだのが、ミニチュアベアリングを作る一機械メーカーに過ぎなかったミネベアの高橋高見だった。70年代以降、積極的なM&A戦略で、業界のあばれん坊として存在感を発揮していた高橋高見は、日本だけでなく、米国やアジアで積極的なM&Aと工場展開を進めており、何としても日本で初めてのTOBを成功させたいと考えるようになっていた。ターゲットとして選んだのが蛇の目ミシン工業だった。  水面下で支援したのは野村証券である。野村証券社長の田淵節也は、日本の企業の経営を合理化し、世界で戦えるようにするためには、日本に本格的なM&Aを定着させることが必要だと考えていた。高橋高見とは肝かん胆たん相あい照てらす仲だった。  最大の問題は、当時証券会社のなかでも断トツの力を持っていた野村証券の力の源泉は、いつでも経営陣の味方に立つという、与党的な立場によって成り立っていたことだ。仮に蛇の目問題で、経営陣の意図に反して敵対的な買収を仕掛ける側に立てば、失うのは蛇の目経営陣の信頼感だけではない。日本の上場企業のほとんどすべての反発を買うことになりかねない。  当時、蛇の目ミシン工業の業績は、ミシンの国内マーケットの衰退もあって長期低迷を続けていた。また、メインバンクの埼玉銀行は、都市銀行とはいっても、地方銀行の有力行並みの体力しかない。蛇の目ミシンの長期的なリスクを背負うことに厳しさを感じていた。  周到な根回しが進められた。ついに埼玉銀行の了解がとれる。埼玉銀行系の安定株主を割り振ることで、ミネベアがTOBを行使した場合、目標の過半数の取得が可能な目鼻がつく。すでにミネベアは、83年3月末に取得し名義を書き換えていた株式5%に加え、実質的に発行済み株式の20%前後を保有していた。大蔵省への根回しも終わり、大蔵大臣の竹下登も内々にゴーサインを出していた。  TOBの主役ともいえる「公開買い付け代理人」は、メリルリンチが務める。野村証券が、真正面からこの役割を務めることを避けたためである。TOBの実務は西村真さな田だ法律事務所が、取り仕切ることになっていた。  あとはゴーサインを待つだけだった。日本経済新聞も、この情報を逐一受けとめながら待っていた。TOBの場合、行使する企業が新聞に「公告」を掲載することになっている。その公告とニュースの取り扱い次第では、インサイダー取引にもなりかねない。記事掲載のタイミングはきわめて微妙だった。  だがそんな心配をよそに、この特大級のニュースは結局、幻に終わる。竹下蔵相がノーを出したのである。田中角栄の刎ふん頸けいの友と呼ばれ、埼玉銀行に隠然たる力を持つ小お佐さ野の賢けん治じがTOBを拒否し、竹下蔵相を動かした。  高橋高見のはらわたは煮えくりかえった。蛇の目の株式は9月末までにほぼ全株売却される。「蛇の目はいずれもっと困ったことになるよ」──野村証券の田淵節也社長はつぶやいた。  案の定、蛇の目はこの4~5年後に、仕手グループ光進の小こ谷たに光みつ浩ひろによる株買い占めに襲われる。バブルの最盛期だった。小谷はみずから蛇の目役員となり、経営面での様々な提案をしただけでなく、蛇の目役員を恐喝した。埼玉銀行、蛇の目の経営陣のなかには特別背任容疑で立件を検討されるものも出てくる。蛇の目は資産を大きく痛め、経営陣や従業員も打撃を被った。 鉄てつ屑くず屋やの息子として  日本のM&A史は高橋抜きには語れない。しかしその生涯は、日本のエスタブリッシュメント社会からは徹頭徹尾嫌われて終わった。その出自、成長の過程を含めて、数奇な人生だった。  1928年、三男一女の四人兄弟の長男として東京で生まれた。鉄屑商を営む父精せい一いち郎ろうのもとで、資産家の家に育つが、精一郎によって、ある種の徹底したエリート教育をほどこされる。46年に慶応義塾大学経済学部に入学。在学中は応援団長と経済学部自治会委員長を歴任する。応援団の制服を学ランからセーターに変え、早慶戦前夜祭を始めたのは高橋だった。早慶戦の応援にミッキーマウスをキャラクターとして使うアイデアにもかかわったと言われる。3年生の時に全校代表として送辞を読み、卒業時には答辞を読んだという。 「鉄屑屋の倅せがれに生まれ、親おや父じの仕事振りを見ながら育った」とみずから語る高橋は、卒業後、鐘紡に入社する。鐘紡は、当時の慶大卒の学生にとってはあこがれの企業でもあった。順風満帆とみえたサラリーマン生活だが、入社9年目にしてあっさり鐘紡を辞める。父親の要請だったという。ほんとうにそれだけだったろうか。伊い藤とう淳じゅん二じ(のちに鐘紡社長)など鐘紡を食いつぶす先輩達の姿に、微妙な違和感を覚えたであろうことは、想像できる。  慶応ボーイのエリートとしてのプライドと、「鉄屑屋の息子」というコンプレックス。この二つの往復運動のなかで、彼のすさまじいばかりの上昇志向と企業家精神が生まれたことは間違いないように思える。  高橋高見とほとんどすべてのM&A案件で行動を共にした西村真田事務所の西にし村むら利とし郎ろうは「私たち日本のM&Aに関わる関係者は高橋高見にすべてを学んだ」と言いきる。弁護士も、会計事務所も、そしてM&Aの専門家たちも、高橋のまわりにたむろし、仕事をもらいながら、プロフェッショナルになっていった。それが、70年代のミネベアだった。  経営者としての高橋高見は、前期、後期にわけて考えると理解しやすい。前期は草創期から70年代まで。世間を騒がすことなく、M&A戦略を活用した時代である。  71年から80年までの10年間で、ミネベアは12社(うち海外3社)の企業買収を実現している。その内訳は多様であり、必ずしもベアリング部門だけではない。しかし本当の意味での敵対的なM&Aは少ない。  その頃、高橋高見のたぐいまれな反骨心や企業家精神は、ミニチュアベアリング部門の海外進出、そしてアジアでの製造拠点の確立に向けられていた。71年のSKF(極小ベアリングメーカー)の米国工場の買収を端緒に、72年にはシンガポールに進出する。シンガポールでは、日本の5分の1の人件費、税制面のメリット、さらには24時間操業可能という利点を生かして、生産効率の改善を実現する。そして70年代末からは、シンガポールのコスト上昇を受けて、タイのアユタヤでの生産拠点確立を急ぐ。  近代経済学の基本でもある「比較優位」の原則通り、労働コストを考えた生産拠点展開による生産性の向上と、ミニチュアベアリングという市場規模が小さく、販売単価も高くない分野で、世界市場を相手に独占戦略の布石をいち早く打ったのが70年代だった。  国内における買収では、70年代に新興通信工業、東京螺ね子じ製作所、新中央工業、そして大阪車輪製造(4社とも東証・大証第2部上場企業)を傘さん下かに収め、81年にミネベア本体に吸収合併する。じっくり時間をかけた結果、敵対的買収とは言っても、きわめて効率的な成功例となった。  これに対し、80年代が後期である。高橋高見は、海外でのM&Aを除くと成功していない。  反骨の経営者、業界の革命児として、また財界を中心としたエスタブリッシュメントの経営者や銀行を批判することでマスメディアでもてはやされる。しかし、もてはやされればもてはやされるほど、高橋のM&A戦略も、いわば世間を意識したものになっていく。  83年の蛇の目ミシン工業に対する幻のTOB劇は、まさに分岐点だった。あの時点で株式の公開買い付けが成功していれば、ミネベアにとっても、蛇の目にとっても、埼玉銀行にとっても、三方一両得の着地だったろう。おそらくバブルの時代の土地高を追い風に蛇の目の資産価値を利用して、ミネベアは新しい成長分野への投資ができたことだろう。  それが挫折したとき、高橋はさらなる「X社」を求めて突き進んでいく。それが三協精機への合併提案だった。 名門金融機関新興勢力  85年8月15日付の日本経済新聞の朝刊は、「三協精機と合併交渉、ミネベア、株19%取得、三協難色─初のTOBも」とある。 「ミネベアが三協側に申し入れている合併条件は一対一の対等合併で、合意次第、細目をつめ、来春にも新会社を発足させたいとしている」「場合によってはわが国企業間では初のTOBに持ち込むことも予想される」  何とも性急な提案だった。何が何でも三協精機を傘下に収めようとするミネベアに対して、三協精機は徹底抗戦の構えをとる。  応援団である金融機関の色分けが時代を象徴していた。  守る側の三協精機サイドには、長野県の名門地銀の八十二銀行、そして三菱銀行、日本興業銀行がつく。そして攻める側のミネベア側には、日本長期信用銀行、住友信託銀行、そして野村証券が参戦する。名門地銀、名門都市銀行、興銀が固める三協精機に対して、ミネベアに付いたのは、野村証券を含め市場派の新興の金融勢力だった。  攻める側の長銀と住友信託銀行は、急速に広がりつつあったユーロ市場を舞台に、ドル建てのインパクトローンの融資枠を確保し、ミネベアに提供した。そして野村証券は、ミネベアのために私募転換社債の発行を用意した。当時、証券界は大蔵省と一体となって、公募債券市場の育成に踏み出したところであり、証券会社が事業会社に対して私募債の道を用意することは禁じ手だった。野村証券はそれをあえて、ミネベアのために提供したのである。  金融自由化によって可能になった資金調達手段を、住友信託銀行、長銀、野村証券がそれぞれに用意することで、ミネベアの兵ひょう糧ろうを支援した。さながら、金融自由化をめぐる新旧勢力のそろい踏みであり、対決だった。  さらに、85年8月下旬になると、海外からの奇妙な闖ちん入にゅう者しゃが現れる。  米国ロサンゼルスの投資会社トラファルガー・ホールディングスが、ミネベアの株式や転換社債、ワラント(新株予約権)を、発行済み株式数の23%に相当する5000万株分取得したことを明らかにした。翌日には、英国の中堅証券会社グレン・インターナショナルがこの取引を仲介したことも明らかになる。  これに対して、ミネベアは私募転換社債の発行や、子会社かねもりの吸収合併などあらゆる手段を使ってトラファルガーとグレンの攻勢をしのいだ。  トラファルガーやグレンという会社が、ミネベアの三協精機合併の動きに乗じてさや取りを狙う札付きの投機筋であることは、市場関係者もマスコミもわかっていた。それにもかかわらず「乗っ取り屋が乗っ取り屋にねらわれた。ミネベアのお手並み拝見」という空気は強かった。  また、ミネベアが投機筋に狙われるのは、転換社債やワラント債といった、市場で資金を集めやすいデリバティブ商品を大量に発行していたからでもあった。  蛇の目に変わる買収先として、拙速で決断した三協精機の買収提案の負の側面だった。トラファルガーとグレンという闖入者への対策は、これから日本で本格化するM&Aの時代のシミュレーションとも言えた。しかし当事者であるミネベアにとっては、手間とコストのかかる仕事だった。それはミネベアの経営体力をむしばみ、同時に、高橋高見の肉体をもむしばんでいった。  トラファルガー社とグレン社の保有していた株式や転換社債などは、86年にミネベア側が引き取り、国内の機関投資家に持ってもらうことで決着する。だが、三協精機との戦いは、それから2年以上におよび一向にほぐれないまま膠こう着ちゃく状態が続く。88年3月、ミネベアは三協精機株1410万3000株(発行済み株式数の18・2%)の大半を、三協精機の子会社に売却することを決定する。ミネベアには40億円の売却損が発生した。  ミネベアにとっては、壮大な徒労だった。  89年5月31日、東京・芝の増上寺には数千人にのぼる会葬者の列が続いていた。ミネベアグループの総そう帥すいであり、日本のM&A戦略の先駆者だった高橋高見会長のグループ社葬であった。バブルの最終局面で訪れた60歳の若すぎる死だった。  高橋の死後に会長職を務めた石いし塚づか巌いわおは、先代社長の高橋精一郎時代の54年に入社した番頭である。陸軍士官学校を卒業し、陸軍中ちゅう尉いで敗戦を迎えたミネベアの番頭は、生前は高橋高見に徹頭徹尾仕えながら、死後は高橋の経営を見直し、否定する。「M&Aをやめるつもりはまったくない。だが、もう敵対的な企業買収を迫る時代ではない」。  高橋時代の代名詞だった神田の粗末なビルから、インテリジェントビルへと本社も移転した。みずからは豪華な邸やしきに住みながら、社員にはロッカー室もない会社での勤務を強いる。19世紀の資本家さながらの高橋高見の露悪的な挙動を、誰よりも嫌っていたのは石塚だった。  70年代に高橋高見が蒔まいた種と、90年代に石塚が選んだ本業回帰によって、ミネベアは復活することになる。  高橋高見は、バブルの時代のはるか昔から日本のM&Aの歴史を作り、バブルの時代もバブルにまみれるのではなく、体制に穴を開け続けて逝った。高橋高見が命を賭かけて闘い、切り開いてきた道は、いまや誰もが通る当たり前の道となっている。  高橋高見は、日本の常識にとらわれることなく、グローバル化の時代に日本の仕組みを変革した「黒い眼をした外国人」だった。幻のTOB原稿はその証拠である。  1985年のプラザ合意は、バブルのスタートを告げる号砲だった。経済政策が一国だけで完結する時代が終わり、日銀は国外・国内双方の圧力によって長期の金融緩和を余儀なくされた。  企業や銀行、人々の行動も変わり始める。80年代前半の金融自由化によって資金調達や資金運用の手段が増えたことで、企業の「財テク」が盛んになる。バブルを膨らませる大きな要因となった「特金・ファントラ」もこの時期から活発になる。一方、企業の直接金融への傾斜、銀行からの自立化によって収益基盤が弱体化した銀行は、土地融資に活路を見いだす。  そして80年代の民営化ブームの象徴となったNTT株の上場フィーバーは、個人のあいだにも、土地と株式で稼ぐことが当たり前というムードをもたらした。  資産価値の値上がりを前提とし、「リスク」の感覚を置き忘れた時代がやってきていた。日本人の堅実な価値観や労働観は失われ、お金を中心とした価値観が埋め込まれていった。 1 プラザ合意が促した超金融緩和政策 「私は消費税導入を実現した宰相として歴史に名を残したいと思う。今ひとつ思いをいたすならば、プラザ合意をまとめた蔵相として記憶にとどめてもらいたい」  竹下登元首相がこうつぶやいたことがある。1995年の春、竹下登の河口湖の別荘でのことだった。バブル崩壊からすでに5年が経過していた。  戦後50年の節目に、竹下メモとしてよく知られていた経済データ集を『平成経済ゼミナール』として著作にまとめるための取材だった。別荘の周りを散策しながら、隣に建っている忠臣、小お渕ぶち恵けい三ぞうの別荘と彼の暮らしぶりをわがことのように解説した。日本長期信用銀行の倒産で、小渕が総理として3兆6000億円の公的資金投入を決めるのは3年後のことである。  驚いたのは、別荘の応接室の入り口の梁はりが、通常よりもかなり高いところに据えられていることだった。プラザ合意10周年の私的な記念行事として、合意当時のG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)の各国蔵相と中央銀行総裁が日本に集まることになっていた。「ボルカー元FRB議長と、ベーカー元米財務長官がここに来ても、腰をかがめないで入れるようにしたかったのさ」と言って笑った。ボルカーは身長2メートルを、ベーカーも身長190センチを上回る威丈夫。しかし残念ながら、この企画は実現しなかったとのちに聞いた。  プラザ合意とは85年9月22日、ニューヨークのプラザホテルでのG5会合後に発表された、マクロ経済政策の協調と、ドル高是正のための協調介入を決めた共同声明のことである。  プラザ合意は為替市場に衝撃を与え、各国の市場でドル売りが殺到し、通貨当局はそれぞれに自国通貨買い(ドル売り)の協調介入を実施した。その結果、円・マルク(西独)・ポンド(英)の主要通貨が、わずか一日でドルに対して一斉に5~6%切り上がるという相場になった。円ドル・レートは1ドル=242円から12円の円高になり、1年後には150円台で取り引きされるようになる。  成功の要因は、それまでは秘密会合だったG5の内容を公表して、市場の予測を上回るスピードでドル高是正の意志を示したことである。通貨当局の戦略の勝利だった。今でいう「サプライズ」戦略のはしりとも言える。  こうしてプラザ合意は、先進国が一体となった世界規模の政策として、短期的にはいまだかつてない切れ味を生んだ。しかしそれは、プラザ合意が為替のみに絞った政策であり、G5間の利害調整や各国の国内政策との整合性などを十分に考えていなかったからこその効果でもある。その矛盾は、米と西独の金融政策の矛盾として、2年後のブラックマンデーで露呈する。  プラザ合意とは何だったのか。  論点は、3つのポイントで整理することができる。一番目は、80年代以降もレーガノミクスで突き進んで来た米国の「強いアメリカ」路線が貿易赤字と財政赤字の拡大によって持続不可能になり、前提条件だった「強いドル」を放棄したことである。二番目は、世界経済の指導力が、米国からG7(先進7カ国首脳会議)と呼ばれる先進国に移ったことである。特に、各国の負担の調整の手段として、為替政策が前面に出てきた。三番目は、為替政策による調整を最優先したことで、それ以外の対応はそれぞれの国にゆだねられ、結果としてさまざまな矛盾に満ちた政策がぶつかり合うようになったことである。日本のバブルを生み出した過度な金融緩和政策もその一つである。  今ひとつ忘れてならないことは、プラザ合意と並行して、85年3月にソ連にゴルバチョフ政権が誕生し、戦後システムを維持してきた冷戦の構造に変化が出てきたことである。ブラックマンデー、そして日本のバブルの時代と並行して、ゴルバチョフの「ペレストロイカ(改革)」路線が進み、89年のベルリンの壁の崩壊、ソ連邦の解体へと突き進むのである。  71年のニクソンショック(金ドル兌だ換かん停止)、73年の変動相場制への移行から、プラザ合意にいたる15年弱の過程は、国際的な金融・経済に絞って議論すれば、パックス・アメリカーナ(アメリカによる平和)と呼ばれた、第二次大戦後のアメリカの指導的な立場が崩れ、スーザン・ストレンジの言う「カジノ資本主義」へと収しゅう斂れんする過程だった。  73年の第一次オイルショックを契機とした原油価格の急きゅう騰とうにより、先進国から産油国へと資金が流出し、それが欧米の金融機関を通じて新興国や米国に還流する。そして79年の第二次オイルショックによって、南米やメキシコなどの新興国の財政・金融の危機が表面化して、新興国にのめり込んだアメリカの金融機関の危機さえ懸け念ねんされた。FRB議長のポール・ボルカーがすさまじい金融引き締め政策をとった80年代初頭がこの時期だった。  こうした変化を通じて、もはやアメリカ一国の力では、民間に集まった巨額の資金の市場への影響力を制御出来ないと、アメリカ自身が考え始めていた。  プラザ合意の構想が、米国主導で秘ひそかに動き始めたのは、こうした時期だった。米国は残された影響力を駆使して、プラザ合意をまとめ上げたのである。  プラザ合意を契機に円高が急速に進み、円が国際通貨として存在感を強める。ロンドンなど海外の金融市場で預金通貨として流通し、円建て債が起債される。それは日本経済のグローバル化と金融自由化が一段と進む契機でもあった。同時に、日本企業がファイナンスを通じて海外の資金を日本に持ち込んだことで、バブル加速の要因を埋め込んだ。  一方で、プラザ合意を契機とした円高によって、それまでの数年間、ドル資産に資金を移動していた銀行や生保や事業会社は、巨額の評価損を被こうむりかねない状況にあった。株式など、他の運用資産の損失が拡大すれば、経営危機に陥りかねない環境だった。 米国への配慮がもたらした超低金利政策  プラザ合意の実現には、その数カ月前の「竹下─ベーカー会談」が、まぎれもなく重要な意味をもっていた。いわば債権大国になった日本が、円高転換をみずから主導したのである。  竹下はプラザ合意について貴重な証言をしている。プラザ合意について、ベーカー長官との間では「G3と言っていた」という。米国と日本、それに西独を加えた3国の合意が、プラザ合意を実質的に機能させたという証言である。さらに「決めるのは日米、すなわちG2だ」という自負さえあった。  プラザ合意以降の国際社会は、金融政策が三元三次方程式になった時代といってもよい。米国、日本、西独、その為替・金利・株価が、それぞれ密接不可分にからみあいながら、他の数字を決めていく時代である。その扉を開けたのが、自分が蔵相の時だった、というのが竹下登の誇りだった。  米国と日本、また米国と西独のあいだには、金融政策と為替政策について政策スタンスの違いがあった。特に、西独は金利引き下げについても慎重だった。  プラザ合意を実質的にリードしまとめたのは米国であり、無条件で追随したのが日本だった。合意の内容が最終的に固まったのは、プラザ合意の1週間前、9月15日の5カ国蔵相代理会議である。極秘会合だった。  その会議資料に記された「討議ポイント」のなかには、さらに「ノン・ペーパー」と呼ばれる「資料でない資料」があった。当時、朝日新聞のワシントン特派員だった船ふな橋ばし洋よう一いちが、そのことを著書『通貨烈烈』のなかで指摘している。  このノン・ペーパーのなかには、ドル高へ後戻りさせないために、為替についての目標管理などが細部にわたって提起されている。しかし金融政策については、しっかりとした議論がされなかった。  船橋は「金融政策そのものについては、ノン・ペーパーでさえハレモノに触るような扱いをしていた。それは介入戦略の『金利への意味合い』の項が、ノン・ペーパーでは全く空白にされていたことからもうかがえる」と書いている。  為替に関する各国の協調政策については明確な合意ができても、各国の中央銀行にゆだねられている金利政策については、明確な指示は出来ない、ということだった。しかし、為替政策を有効に機能させる条件こそ、金利政策だった。  ハレモノをめぐるそれぞれの国の対応が、その後、さまざまな問題を生み出すことになる。日本においては、米国への過剰配慮が金融政策をしばり、超低金利政策の持続が、バブルを加速したのである。 「日本のバブル経済の実質的な起点は、間違いなく86年にある。それはプラザ合意以降の円高過程で、日本の政策当局が日本経済の競争力を過小評価したことにある」と中なか前まえ忠ただしは言う。彼は70年代からロンドンに居を置き、最前線のエコノミストとして、日本経済を的確に分析してきた。  その中前は87年1月25日の日本経済新聞コラム「競う」の対談で、「今年(87年)は景気は早い時期からしり上がりによくなっていって、年度平均で5%くらいの成長率になっていくんじゃないですか。円高の効果は生産性上昇率の非常に高い電機とかハイテク分野の構造転換を促進する役割を持つことになると思うんです。それによって景気は急速に立ち直る時期が来るのではないかと思ってます」と、いま振り返ってみれば、きわめて的確な見通しを立てていた。  これに対して、対談の相手だった東海銀行のエコノミスト役員である水みず谷たに研けん治じは、「景気は引き続き悪くなっていくのではないかという考え方です。私が悲観的なのは円高のマイナス面は出尽くしていないのではないか、と考えるからです」と言っていた。  水谷をあげつらうつもりはない。1ドルが242円から150円台へと1年で急騰したのである。86年当時の日本社会のなかで、円高危機論はいわば大半の企業や社会の共通の感覚であり、マスメディアの論調もそうだった。むしろ中前のような見立ては少数派だった。  日銀は、公定歩合を86年1月30日5・0%から4・5%、86年3月10日4・5%から4・0%、86年4月21日4・0%から3・5%、86年11月1日3・5%から3・0%、87年2月23日3・0%から2・5%と下げ、空前の金融緩和政策でのぞんだ。そして87年以降も金融政策の転換をしなかった。  中前の議論のポイントは、市場経済の力で産業構造の転換をする力が日本にはあった、そのチャンスが86年だった、ということである。輸出産業をはじめとする日本の製造業が、生産性を向上させながら構造改革に取り組むことができるまさにそのときに、過度な金融緩和政策がそれをないがしろにした。金融機関を不動産投資に向かわせて、千載一遇の再生のチャンスを逃してしまったということである。 日銀の変質  これほどの明確な結論を導き出してはいないものの、香こう西さい泰ゆたか、白しら川かわ方まさ明あき、翁おきな邦くに雄おら日本銀行スタッフと外部エコノミストが2001年に出版した『バブルと金融政策』も同様の指摘をする。同書は日銀が2000年に非公式にまとめたバブル総括のレポートを再構成したものだ。白川はのちに日本銀行総裁となり、香西は政府税制調査会会長になる。日本経済のエスタブリッシュメントであると同時に、第一級のエコノミストである。 「金融政策はバブルをもたらしたか」という章で、事後的ではあるが、かなり明確な問題指摘をしている。 「日本銀行は1985年9月のプラザ合意後の急速な円高・ドル安の進行による『円高不況』に対応するため、86年1月から87年2月までの間、公定歩合を計5回、2・5%引き下げた。その結果、公定歩合は87年2月から89年5月まで約2年3カ月にわたって、当時としての既往最低水準である2・5%という低金利が続いた」とした上で、この間の金融政策運営の特色として、三点を挙げている。  第一の特色は、国際的な政策協調の枠組みに強く影響されたことである。プラザ合意とはドル高是正に向けての為替相場への協調介入であり、マクロ経済政策の協調だった。そうした枠組みのなかで、日本、ドイツなどの黒字国は内需の拡大を、赤字国の米国は財政赤字の縮小に取り組むことが謳うたわれていた。「86年1月以降5回にわたるわが国の公定歩合引き下げのうち、第1回は日本銀行の単独引き下げであったが、第2回以降は、引き下げのタイミングが米国の引き下げと同一であったり、日米の政府声明ないし、G7の共同声明と同一であるなど、国際的な政策協調の枠組みに強く影響された。このため、国民の間には漠然と『金利は国際的な関係を考慮しながら関係国と相談しながら決めていくものである』という観念が広がっていった」  第二の特色は、金融政策の運営上、為替相場の安定確保、とりわけ円高抑制に大きなウェイトがかけられたことである。円高による景気後退、国内経済の空洞化の懸念から円高阻止がいわば「国論」となるような雰囲気だった。当時のG5後の発表文には、各国の政策意図が記されているが、日本の金融政策については、「円レートに適切な注意を払いつつ、金融政策を弾力的に運営」という表現で、為替相場との関係が強調されていた。「為替相場と強くリンクした公定歩合の引き下げという性格は、とくに86年10月と87年2月の二回の引き下げにおいて顕著であった」  第三の特色は、「『内需の拡大を通じて経常黒字を縮小する』という当時支配的であった経済政策運営の理念の影響を金融政策も受けていた」ことである。これは日本銀行の金融政策運営を大きく拘束した。  三元三次方程式で動く国際経済の動きが、日本の金融の総本山である日本銀行の政策の原則をどのように変え、のちに日銀総裁となる白川方明をふくめ、中央銀行の幹部の意識さえ変えていったかを、当事者の反省を含め、告白している。 「通貨価値を維持する」という中央銀行の大原則が、「国際化=為替の安定」の名の下に、かつての原則とは違うものになり、下げる必要のなかった公定歩合を引き下げ、本来上げるべきタイミングに上げることができなかったということである。 中曽根民活路線と前川レポート  金融緩和政策が始まる86年には、前川レポートも出されている。86年4月7日に当時の首相、中曽根康弘の私的諮し問もん機関である「国際協調のための経済構造調整研究会」がまとめたレポートである。座長は元日銀総裁の前まえ川かわ春はる雄おだった。  前川レポートは、日米円ドル委員会などによって顕在化していた米国の日本に対する批判を、みずからの手で解決しようという「構造改革」の提言だった。経常収支の大幅な黒字を解消するには「輸出指向の経済構造を転換させ、経済生活および国民生活のあり方を歴史的に転換させる」必要があり、そうすることで経済の発展を持続させるという内容だった。  そのために①市場原理を基調とした政策、②グローバルな視点に立った施策、③中長期的な努力の継続──という原則を掲げ、「内需拡大」「産業構造の転換」「市場アクセスの改善」を目標にすえた。  中曽根政権は基本的に、規制緩和、景気拡大の思想に支えられていた。83年1月にアーバンルネッサンス計画で都心部の容積率を大幅に緩和し、87年6月にはリゾート法(総合保養地域整備法)を制定した。そして、日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社の3公社の民営化を決め、民間活力を取り入れる「民活」路線を打ち出した。  中曽根民活路線は、前川レポートの趣旨にそって進められるはずだった。前川レポートには、当時、日本に向けられていた内外の批判に応こたえて、日本経済を内需主導の経済体制に移行するための構造改革の議論が、すべて含まれていたと言ってもよい。第1章4でふれた「二つのコクサイ化」によって起きるさまざまな軋あつ轢れきを、自由化と市場経済の力で解決しようとする大胆な改革案であった。  分かりやすく言えば、第二次産業(製造業)から第三次産業(サービス業)への転換を、人の移動をふくめて進めようという提言であり、同時に、戦後長く放置されてきた第一次産業の農業にまでメスを入れるものだった。  しかし時の政権や官僚は、それをいいように解釈して使った。430兆円の公共投資がまさにそれであり、金融政策も内需振興をたてに緩和政策がとられる。  また経済学者、小こ宮みや隆りゅう太た郎ろうは、日米の貿易収支の不均衡について「経常収支の不均衡は各国を構成する経済主体が最も有利と判断して選択した行動(貯蓄投資バランス)の結果に過ぎず、互いに相手の所為ではない。また、それは、たとえ持続的であっても、不利でも不健全でもない」と著書のなかで明快に述べている。アメリカの責任である事を、なぜ日本が押しつけられなくてはいけないのか、という異議申し立てでもあった。小宮の議論は、「日米の貿易の不均衡」が「為替レートの円高政策」を生み出し、結果として「金融緩和の継続」という誤った政策を続けることへの本質的な批判だった。  しかし、政治家や官僚、そして銀行などの日本のリーダーたちは、85年からの2年間で、思考をバブル仕様に切り替え始めていた。楽な道を選んだのである。  前川レポートのなかの「構造改革」が真剣に議論されることは少なくなった。また中前の主張するように日本経済の「円高」を乗り切る活力を信じる議論も少なかった。  中曽根康弘も竹下登も、なべて日本の政治家はG5における日本の役割の高まりに心地よさを覚え、そのリスクに思いをはせることをしなかった。また日本銀行は、金融引き締めの必要を感じながらも、行動を起こすことをしなかった。なによりも批判されるべきは、株価や土地価格の高騰(資産インフレ)を金融政策に結びつける思考と覚悟が欠落していたことである。  86年は、日本経済の構造改革のラストチャンスだった。前川レポートの正否はしっかりと議論されないままに、日本はバブル経済の渦か中ちゅうに突っ込んでいく。  再び竹下登に戻ろう。竹下は蔵相として、日米同盟を明確に意識しつつ、プラザ合意の連携に踏み込んでいく。総理になって以降は、バブルのユーフォリアのなかで、リクルート事件によって総理の座を追われる。しかし、捨て身の引退劇のなかで、消費税導入を実現した。バブルの最終局面の好景気がなければ、消費税を導入することはできなかっただろう。バブルが負の側面だけではなかった証左でもある。  日本経済新聞の論説主幹だった岡おか部べ直なお明あきは『ドルへの挑戦』で、プラザ合意について「戦後一貫して米欧主導で運営されてきた国際通貨の世界で初めて日本が主役の座に就く舞台にもなった。竹下蔵相は首相になった後も、このプラザ合意を自身の大きな功績と考えていた。蔵相当時『円高大臣』と自称し、『通貨マフィア』と呼ばれるのを好んだ」と総括している。ベーカー財務長官が、ドル高是正を「ベーカー・プラグマティズム」と評価されながら「自伝の中でプラザ合意に触れていない」のとは対照的である。  プラザ合意以降は、米国と日本と西独は、三両連結の機関車と呼ばれる。しかし、米国と日本との関係と、米国と西独との関係は、金融政策に関して対照的な道を歩む。それがバブルの局面、そしてバブル崩壊後の日独の大きな乖かい離りとなるのである。 2 資産バブルを加速した「含み益」のカラクリ  バブル崩壊後の「失われた20年」と呼ばれる日本経済の長期低迷と、銀行の経営危機の大きな原因が、1986年から89年にかけての土地をめぐる取引にあったことは間違いない。バブルは、株高と土地高が相互に干渉しあいながら生じたが、それを加速したのが、銀行の節度を越えた土地融資への傾斜だった。最終局面の日本のバブルを、他の外国のバブルと分かつ重要なポイントである。  日本の銀行と企業の会計を不透明にしたのが、含み益(hidden assets)の存在だった。含み益とは取得原価(簿価)と時価の差益である。企業がもつ含み益の大半は、所有土地の評価だった。そして、日本の土地価格の制度的な曖あい昧まいさと、企業の会計制度における時価主義の不徹底が、本来は株主に帰属するはずの含み益を、企業経営者の自由裁量にゆだねる日本的経営を許容し、結果として土地を通じてバブルを拡大した。  メインバンクは土地を時価評価して含み益を担保に企業や経営者に融資する。土地の価格が上昇し続けるかぎり、長期金利を大幅に下回る企業収益が続いても、もっといえば赤字経営が続いても、企業は存続が可能であり、銀行も貸し倒れが生じる懸念はない。 「土地本位制」ともいえる有担保主義、メインバンクと企業の安定した関係、株式の持ち合いによる株主の拒否権の放棄、そしてシェア至上主義ともいえる企業の低収益下での過当競争。日本的な経営システムの特徴を可能にしたのは含み益の存在だった。  日本に100万社以上ある実質的に活動している中小企業のほとんどが、利益をいかに出すかよりも、いかに利益を減らし、税金を少なくするかを競っていた。  土地バブルの歴史は、決して80年代が初めてではない。70年代の田中角栄による『日本列島改造論』の時にも土地ブームが起こり、中小企業経営者や庶民の欲望を煽あおった。  そして、田中角栄がロッキード事件で逮捕された後も、土地の価格は大きく調整することなく、長期の上昇気流に戻る。この経験が、日本の地価は上がり続けるという「土地神話」を確固としたものにする。 「土地神話」と「銀行の不倒神話」は、日本の経済制度としてワンセットだった。戦後の復興期から、高度成長期、そしてオイルショック後の国際化の初期にいたるまで、右肩上がりの土地高は、日本の経済・金融システムの前提であり、間接金融主導の日本の金融を支えていた。  84年の日米円ドル委員会、85年のプラザ合意、そして86年の前川レポート。金融のグローバリゼーションの急展開と、アメリカからの対日圧力によって、関係者はようやく従来通りの日本の経営システムが、このままでは持続不可能であることを感じ始めていた。  とりわけ日本の銀行は、金融自由化による直接金融の増加や、大企業の自立化によって、収益基盤が弱体化して、新規分野への業務拡大を急がなくてはならなかった。  そこで、大銀行は70年代にみずからの出資で作った住宅金融専門会社(住専)を、個人向け住宅ローンという本来の目的で育てるのではなく、大銀行の別働隊、さらには銀行が直接融資することがはばかられるような案件の受け皿として使い始める。  86年以降のバブルは、銀行の積極的な土地融資による地価の上昇と株価の上昇が相互に浸透して、一体化したユーフォリアをつくる過程だった。 土地と株式が生んだ1452兆円のキャピタルゲイン  バブルが、実は「土地の含み益」と密接不可分な関係によって形成されていることを知らしめたのが、86年3月20日付の日本経済新聞の一面企画「会社は誰のものか」の第1回「会社を解散し山分けにしよう」という記事だった。  当時、不動産業界ナンバーワンの三菱地所が保有する土地・建物の評価額は、帳簿上はゼロに近かった。それが、時価評価すると7兆7500億円に達するという衝撃的な数字を明らかにした。当時の三菱地所の株価の倍でTOB(株式の公開買い付け)をしても、まだ新しいオーナーには3兆5000億円の利益が残る、という計算だった。  この記事が掲載された3月20日、三菱地所はストップ高で値が付いた。三菱地所の保有土地の時価が、公開情報から推定できるものよりも、公示価格で見てもずっと大きい、裏を返せば、株価が大幅に割安であることを好感した買いだった。  三菱地所がみずから土地バブルを煽ったわけではない。三菱地所は、戦前から戦後まで長い期間、三菱グループの「大家」だった。その蓄積された土地保有の歴史が、含み益を生み出した。しかしその金額は、80年代のバブルで劇的に膨れあがっていた。  投資家はそのことを知らなかった。株式市場の投資家は、三菱地所の経営力ではなく、土地の含み益を素直に評価した。  そして、バブルの後半にはウォーターフロント相場が始まる。ウォーターフロントとは東京の湾岸エリアのことである。当時、株高を前提とした日本経済の未来図を描いて投資資金を呼び込む、野村証券による「シナリオ相場」が株式市場を席巻していた。わかりやすく言えば、企業を、それも不動産とは縁もゆかりもない企業の株式を、経営力や収益で買うのではなく、所有する「土地」の含み益で買う相場だった。  豊洲に広大な土地を持つ石川島播磨重工業(現IHI)、東京ガス、日本鋼管(現JFEホールディングス)が御三家と呼ばれ、東京湾岸に不動産をもつ企業の株が土地の価格だけで買われた。証券マンは寄るとさわると東京湾岸の地図を広げ、「ここはどこの会社の土地なのか」を話題にした。石川島は86年の安値150円から88年11月には高値1350円まで急騰する。  問題は、それが株価の世界だけで収まる話ではなかったことだ。  85年には、国土庁が7年かけてまとめた「首都改造計画」を発表、東京湾岸0メートル地帯の住空間の見直しを打ち出すなど、中曽根政権による現実的な政策の裏付けもあった。  大都市圏の容積率の緩和、東京湾横断道路の推進、さらに鈴すず木き俊しゅん一いち都知事による、東京臨海副都心計画など、日銀の超低金利政策とあいまったプロジェクトが打ち出されていた。大蔵省、日本銀行、東京証券取引所を結ぶ三角地帯は「ゴールデントライアングル」と呼ばれ、土地価格の面でも、東京のキーポイントと見られていた。  銀行も、系列のノンバンクを巻き込んで、土地融資に奔走する。企業だけでなく、個人の土地への欲望も膨らむ。だれもが「このチャンスに乗り遅れたら後がない」という気持ちに駆られ始めていた。  東京の住宅地の地価は87年22%、88年69%、89年33%、90年56%という異常な値上がりを示し続ける。土地は上がり続けるという神話が、法人から個人にまで広がり、銀行やノンバンクの融資の担保掛け目は、平時ならば、担保の土地の価格の70%というのが当たり前なのに、88年以降は、120%近い担保掛け目で融資する金融機関まであった。  銀行に巣くうサラリーマン社会の相互無責任と上昇志向が、バブル下のチェックの甘い土地取引を横行させた。第3章で取り上げる光進の小谷光浩や、第一不動産の佐さ藤とう行ゆき雄お、麻布建物の渡わた辺なべ喜き太た郞ろう、秀和の小こ林ばやし茂しげるなど新興の不動産グループが、三菱地所など主力不動産会社と並ぶような、あるいはそれを上回る資金を動かし、大規模な不動産開発や、株式投資に乗り出していた。  銀行は、あらゆる手段を使って、土地のプロジェクトに入りこもうとする。優良企業である三菱地所のプロジェクトへの融資であろうが、地上げ屋への融資であろうが、果ては暴力団系企業への融資であろうが、土地担保さえあれば、ほぼ同じ条件で融資されるという、異常な時代が現出した。銀行の行動を支える根拠は「土地の価格は下がらない」という理屈にもならない信念だけだった。  89年には国内の土地投資に出遅れ気味だった三菱地所も、しびれを切らしたかのようにニューヨークのロックフェラーセンターを2200億円で買収する。  86年から89年に発生した、土地・株式のキャピタルゲインは1452兆円にのぼり、家計が得たキャピタルゲインは89年だけで260兆円となった。土地と株価は、連動して上がることが当然のようになっていた。誰もがユーフォリアに酔っていた。日本のGDPが400兆円の時代だった。 qレシオという本末転倒の理論  バブルの時代には、株高や土地高を説明し正当化する、もっともらしい投資尺度も生まれた。qレシオがその象徴である。  アメリカのノーベル賞経済学者ジェームズ・トービンが提唱したトービンのqという概念を使ったものである。企業の株価に発行済み株式数を掛けた時価総額から債務を引いた額を、時価評価した自己資本の額で割ったものが、トービンのqである。  qが1より小さい場合、市場が評価している企業の価値は、現存の時価評価した資本の価値よりも小さい。すなわち、資本ストックの価値は過大であり、企業は資本ストックを使って財を再生産するよりも、資本ストックを市場で売却したほうが利益が上がることを意味する。またqが1より大きい場合、市場が評価している企業の価値は現存の資本ストックの価値よりも大きい。すなわち企業は資本ストックを使って財を再生産するほうが大きな価値を生み出すので、投資をして財を増産したほうが有利である。  企業の経営が生み出す利益と、保有する資産の価値の関係を市場との関係で分析する、極めてまっとうな議論であり、トービンはこれによってノーベル賞を得る。  このトービンのqの概念が、80年代に日本に持ち込まれた。そしてバブルの最終局面の88年に若わか杉すぎ敬たか明あき東京大学教授を座長とする日本証券経済研究所のワーキンググループが、『日本の株価水準研究グループ報告書』のなかで株価との関連で取り上げた。  日本に持ち込まれたqレシオは肝心のところでトービンの考え方とは違った使い方をされる。トービンのqでは市場価格は絶対で、実態を反映しているとみなされる。したがって、qが1を下回っていれば、分母の資産(設備資産や土地)を売却する行動をとるという、いわば経営者の行動原則を決めるための経営の理論だった。  ところが、若杉教授らが持ち込んだqレシオは、彼の意図がどうだったかは別にして、qが1を下回る状態は、現実の分母の時価評価した資産が、十分に分子である株価に反映されていないとする議論だった。そして、qレシオを使う証券会社は、簡略化したものであるとはいえ、企業が保有する土地の時価評価を入れて計算した。  バブル末期の土地の価格を、株式の時価総額と比較することで、土地の含み益に比べて、株価の割安感を説明する投資尺度として使ったのである。  本末転倒ともいえる議論なのだが、バブル経済のさなか、日本の特殊な会計制度と経営者の日本的な行動を前提に考えると奇妙な合理性を持つようにも思われた。  トービンのqの分母の土地価格が異常なのか。はたまた、分子の株価が十分に含み益を反映していないのか。本当の資産であるはずの、企業の設備や人間のことは論じられないままに、土地価格と株価の相互作用によるトートロジーともいえる株価形成が加速した。それは株式市場だけではなく、土地融資に狂奔する銀行にとっても便利な尺度だった。  いずれにしても、バブル相場も過熱気味の88年、PER(株価収益率)やPBR(株価純資産倍率)など既存の投資尺度では説明できなくなった株価に、ノーベル賞学者と東大教授がお墨付きを与えたと市場関係者は感じていた。  先にも取り上げた『バブルと金融政策』のなかで白川方明が述べたコメントが印象的である。「バブル期当時、日本銀行を含めて、日本全体として、バブルの弊害に対する正しい認識が存在しなかったのは否定しがたい事実だと思います」。  白川は当時、現役の日銀マンとして、80年代のバブルに対する日銀としての反省を込めて、この書を仲間と共著で出した。そして、7年後に、今度は日銀総裁として、デフレと格闘することになる。  89年の初め頃、日本経済研究センターの金かな森もり久ひさ雄おに、記者としてバブル問題を取材したことがある。地価の異常と銀行の行動について質問を投げかけると、「ケインズ経済学は基本的にはフローを分析する経済学です。私を含めたケインジアンにはストックである土地を説明する理論を持っていないのです」。誠実な経済学者は苦しそうに答えた。 「グローバル化の時代に、東京23区の土地の価値が、アメリカ全土の土地の価値を上回っているのはおかしくないか。長期的には持続不可能ではないか」というのが私の質問だった。  素朴な疑問は、ついにバブルが崩壊するまで解明されることはなかった。  含み益がもたらす土地高と株高、その裏にある企業や国民の楽観論と銀行の無軌道な融資が、企業の行動を、そして人々の行動を変えていく。それまでの常識では考えられないような異常な時代が訪れようとしていた。 3 「三菱重工CB事件」と山一証券の死  1986年9月、東京の溜ため池いけにある全日空ホテルの割かっ烹ぽう『雲海』の和室で、私は山一証券副社長の成なり田た芳よし穂ほと向き合っていた。彼からの突然の呼び出しに応じたものだったが、成田は最初から奇妙な、張り詰めた空気を漂わせていた。 「山一証券は腐っている」  しばらくの沈黙のあと、充血したようにもみえる眼を見開き、彼は切り出した。 「何が腐っているのですか」という私の問いに「何もかもだ。横よこ田た社長には辞めてもらわなくてはいけない。植うえ谷たに会長にも退任してもらう」と答えた。エキセントリックな調子で語り続ける成田の表情は、私がこれまでに見たことのないものだった。  私が兜町の記者になってから13年、京都大学の先輩として、また証券市場の先輩として、証券市場の見方や取材のポイントなどについて、教えてもらった立場である。だからこそ、この日の成田には、普通でないものを感じた。 「二人に退いてもらうとして、一体、誰が社長になるのですか」  そう聞き返すと、 「私だ」  という答えが返ってきた。二つの理由で、成田の答えは意外だった。  一つ目は、成田芳穂はこういう立ち居振る舞いをする人間ではなかった。山一証券の法人担当の顔として社内外に幅広い人脈を誇っていたが、身長160センチそこそこの小こ兵ひょうぶりそのままに、よく言えば気配りの人、見方を変えれば、ノミの心臓ともいえる気の小さい人だった。仮におなじ行動をとるにしても、この種の言動は考えられなかった。  当時、山一証券のなかに、ある種の路線闘争とも言える対立が起こっていた。路線闘争は80年12月に社長に就任した横田良よし男お社長の変節と、決断力のなさが招いたものだった。横田は「法人の山一」といわれながら、営業力の極端に落ちていた法人営業に頼らず、個人営業を主体に山一を復活させることを夢見ていた。  そのため横田は、従来の主流派とは一味違う若手の抜ばっ擢てきをもくろんでいた。山一証券は、「昭和40年の証券不況」で日銀特融を受けて以来、日本興業銀行の実質的な支配下にあった。主流派と呼ばれたのは、プロパーの植谷久ひさ三みつがその支配から脱して権力を掌握する過程で育てた人脈だった。植谷久三会長がとくにかわいがっていたのは、行ゆき平ひら次つぎ雄お専務だった。しかし横田は個人営業を強くするために、行平とは別の人脈から抜擢することを密ひそかに考えていた。  ところが、85年ごろからバブル相場の萌ほう芽がが見られ、財テクによる法人を中心とした相場の活況が広がる。上位三社に大きく後れを取る山一証券は、その活況のなかで、地道な個人営業によって預かり資産の拡大をはかるという正攻法の路線から、いつしか逸脱していく。その分岐点が86年であった。横田はみずからの掲げてきた路線からするりと変節して、一任勘定で自由に扱える営業特金を1兆円集める作戦に転じる。それは証券取引法違反の可能性さえある利益保証(にぎり)によって資金を集め、その運用で収益を上げる路線だった。  当時、成田は得意な法人担当のグループから外されて、個人営業、企画部門担当の副社長となっていた。結果として、行平次雄法人担当専務、永なが田た元もと雄お法人副担当常務が仕切るグループではなく、改革派=反行平グループに近かった。しかし、成田から当時の法人営業に対する明確な批判は聞いたことがなかった。すくなくとも表向きは、成田は植谷会長と横田社長の忠実な飼い犬だった。  いま一つの意外さは、成田芳穂が山一証券の社長になるという選択肢が、私の頭のなかでは、どうしてもイメージできなかったことである。法人の山一と呼ばれる山一証券のなかで長く法人担当を務め、筆頭副社長として経営全般を統括する立場にあるのだから、社長候補だと言われても不思議ではない。  しかし、周囲にそう思わせるカリスマ性は皆無だった。社内にも社外にも、成田待望論は広がっていなかった。もちろん、植谷にも横田にもそうした気持ちはなかった。 「この人は社長の器ではない」という評価が、いつしか私の頭のなかにもこびりついていた。 「社内が腐っているのなら、具体的なケースで話をして下さい」。私は杓しゃく子し定じょう規ぎに質問を投げ返した。成田は口をつぐんでしまった。気まずい別れだった。  これが生前の成田芳穂に会った最後である。  あとになって考えてみると、このときすでに成田の心のなかでは、正攻法の経営改革ではなく、スキャンダルをもって植谷と横田のポストを奪い取る考えができ上がっていたのだろう。彼の鞄かばんの中には、三菱重工業の転換社債(CB)の総会屋への割り当てリストが入っていた、と思う。  翌87年1月16日、成田は物置で死んでいるのを発見される。  その日の午後5時に、東京地検特捜部の検事、田た中なか森もり一かずが成田を事情聴取する予定だったと読売新聞は伝えている。総会屋への利益供与疑惑を調べるための呼び出しだった。 総会屋に配られた「親引け分」  三菱重工は86年8月に1000億円の転換社債を発行した。転換社債は社債の形式をとっているが、発行時に決めた価格で株式に転換できるため、株価が上がっていけば、値上がり益を享きょう受じゅできる、株式に近い金融商品である。したがって株式市場が活況な時には、株価の上昇分も見込んで、転換社債の価格が、上場直後に大きく上昇するということがありうる。このときの三菱重工の場合は、100円の発行価格の転換社債が上場初日に200円の価格をつけた。  転換社債を手に入れた顧客は、労せずして投資資金が2倍になる。2年後に事件となるリクルートコスモスの未公開株と同じように、バブル相場が生み出した「金のなる木」である。  投資家にとってみれば、誰でも喉のどから手が出るほど欲しい商品である。しかし希望する投資家すべてがこの転換社債を買えるわけではない。証券会社の判断で、重要な顧客や、その時の経営戦略に合わせて配分するのである。それは、他の取引で損をした顧客に対する補ほ塡てんであることも多い。配分の仕方は、証券会社の収益力とモラルによって左右される。  また証券会社の配分とは別に、発行金額の一定比率、おおむね35%程度を発行会社の裁量で配分する親引けがある。これについては、発行会社の指示によって、幹事証券が顧客に配分することが一般的だった。  三菱重工の指示にしたがって、主幹事の野村証券と日興証券、準主幹事の座に甘んじることになった山一証券も、親引け分を指示された投資家に配ったはずである。  しかし一般的には、証券会社が配分する分を含めて、誰に転換社債が渡ったかは、公募とはいえ広く知られることはない。まして、親引け分は最高機密である。  時折こうした情報がもれることがあるとすれば、検察や警察が介入する刑事事件のとき、あるいは国税庁などの税務当局が脱税問題で動いたとき、そして発行会社か幹事証券の関係者が意図的に流したときである。  私が成田と全日空ホテルで会ってから日をおかずして、通常ではあり得ないことが起こる。山一証券が引き受けた親引け分の分配先のリストが出回ったのである。山一証券が配分したリストはほとんどが総会屋だった。  リストを手に入れたのは、投資情報誌「暮らしと利殖」オーナーの生いく田た盛さかるだった。生田は山一証券に対して、「総会屋にCBを配分した責任」を追及した。あわてた山一証券は、総会屋の大物上かみ森もり子し鉄てつに仲裁を依頼した。86年11月13日、生田と上森は山一証券の植谷久三の会長室をおとずれ、「総会屋問題の直接的な責任者である行平専務をやめさせること」、もし「行平専務をやめさせないのなら、成田副社長を社長にしろ」と申し入れた。これに対して会社側が出した答えは、行平をロンドンの現地法人の会長に転出させて本社から外す替わりに、「成田を社長にしない」ことだった。植谷久三の執着である。時間稼ぎだった。  そして、情報漏ろう洩えいの容疑者として、成田は事実上の自宅謹慎を命じられる。成田を追いつめ、干し上げたのは、植谷久三と横田良男だった。  追い打ちをかけるように、さらに考えられないことが起きる。同年の11月末、雑誌「財界」の12月16日号に植谷のインタビュー記事が掲載された。  その内容は、「三菱重工から総会屋に転換社債(CB)を配るように依頼された」「それを行平次雄法人担当専務は、二つ返事では受けなかったが、これを拒否すれば、三菱重工からも、三菱グループからも幹事をはずされる」「横田社長とも相談した上で、日本的な判断を下した」「三菱重工を悪くいうつもりはない。だいたい商法が現実的ではない。それを山一だけが問題にされたというのは力が弱いからなのか」──。代表取締役としてはありえないコメントだった。  この記事に目を付けた特捜検事がいた。田中森一である。  総会屋に対する利益供与は81年の商法改正ではっきりと禁止された。当時、総会屋との関係を断ち切る過程で、警察による総会屋一掃作戦が広がっており、アングラ社会からの反攻も目立っていた。こうしたなかで、日本を代表する三菱グループの看板会社の行動は、検察が関心をもっても不思議ではなかった。  田中は総会屋の取り調べの過程で、「金のない総会屋」が三菱重工業のメインバンクである三菱銀行のバックファイナンス付きで資金を調達して、労せずして利益を得ている事実をつかむ。さらに、山一証券が配った総会屋へのばらまきは全体のごく一部であり、野村証券や日興証券など上位の主幹事証券が配った親引け分のなかには、政治家や防衛官僚など、単なる商法違反を超えた大きな不正が隠されている、というのが田中森一の見立てだった。  田中は1月16日、成田を事情聴取に呼ぶ。そして成田は自死を選ぶ。 検察幹部からのストップ  成田の死の直後、「旬刊商事法務」の87年2月25日号に、法務省刑事局付検事の川かわ合い昌まさ幸ゆきが、三菱重工のCB事件は利益供与で立件可能だという論文を発表する。これに対して同じ雑誌の翌月号に、東京地検特捜部長を経験して最高検検事に上りつめた河かわ上かみ和かず雄おが論文を掲載する。その趣旨は、企業は私的な存在であり、その奥にまで捜査機関が入って正常化を図ることは、企業経営にとって健全なことではない、という内容だった。  現場に近い現職検事と、最高検検事の考えが割れ、その対立が公おおやけの誌面を通じて明らかになる。前ぜん代だい未み聞もんの出来事だった。川合の問題提起は、価格が変動する証券の授受が贈ぞう収しゅう賄わいや利益供与に問えるかという、戦前の帝人事件(第3章1で詳述)以来の古くて新しいテーマであり、闘えるという判断だった。また河上の反論は自由私企業体制における経営判断の自由にかかわる問題だった。  しかしそれらを読んだ検察関係者のあいだに、本質的な議論に発展すると考える空気はなかった。むしろ、田中森一など現場検事の立件ムードに対する、検事総長伊藤栄樹をはじめとした上層部の否定的見解と受けとめた。事実はその通りに推移する。  検察の内情に詳しい朝日新聞記者(当時は毎日新聞)の村むら山やま治おさむは、「これが事件になれば、ロッキード事件に匹敵する政治・経済犯罪につながる。それをしっかり受けとめるだけの力量は、当時の検察にはなかった」と分析する。  当時、十数年に及ぶロッキード公判の第一審判決が下り、検察は一息ついていた。それでも政権の中心にいる旧田中派を敵に回しての公判維持に、検察はエネルギーを費やしていた。検察幹部にとっては戦線をさらに広げるだけのゆとりはなかった。  成田の死から11カ月後に田中森一は検事をやめる。小谷光浩、宅たく見み組の宅見勝まさるの弁護など、まるで憑つかれたようにバブルの渦中に飛び込み、みずからも株取引にのめり込む。そして2014年に亡なくなる。  三菱重工CB問題を立件しなかった検察の判断は、違法な行為を続ける経営者を残し、その拮きっ抗こう力りょくである人材を放逐することに加担した。結果として、山一証券に自浄作用が働く可能性を奪った。  河上和雄は、私企業に対する国家権力の過度な介入を諫いさめた。しかし、自由・公正という市場の原則をまったく守らない経営者がいる時には、誰かがそれに警鐘を鳴らし排除しなければならない。それは、証券業界の秩序であっても、企業のガバナンスであってもよい。また、大蔵省の監督であり、マスメディアの批判であってもよい。三菱重工CB事件ではそれが働かなかった。  三菱重工CB事件は、明らかに違法性を問うべき問題だった。しかし、成田はそれを社内抗争の道具に使い、犯罪として立件しようとした検察も腰砕けに終わる。そして、成田の死が、山一証券の反省なき経営の持続を可能にする。86年から87年にかけては、山一証券にとってはまさに転機だった。 永田ファンドへの傾斜  成田の死から1年もたたない87年12月18日、行平次雄は副社長に復帰する。総会屋仲裁から1年後のことである。そして、副社長復帰からわずか9カ月後の88年9月6日に、社長に就任する。  成田を死に追いやった暗愚の帝王植谷久三は、その後も取締役相談役として眼を光らせ、代表取締役会長となった横田良男は、社長就任時に個人営業の拡大をともに夢見た部下たちを社外に放逐し、みずからを営業特金拡大路線に縛り付ける。そして三菱重工CB問題と社内の内紛をかろうじて乗り切った行平にとっては、もはや社内権力の強化が唯ゆい一いつの目的となっていた。  山一証券は永田ファンドと呼ばれる営業特金にのめり込む。  バブルの時代には、何か新しさを感じさせる金融商品が生まれる。80年代のバブルでは特金・ファントラがそれだった。もともとこの二つの商品は、80年12月の国税庁通達のなかの「特定金銭信託を通じて購入した株式・債券は簿価分離できる」という一文が生み出した制度上の変化から生まれたものだった。簿価分離ができることで、財テクと呼ばれる会社の財務部門の収益志向の投資を、会社全体の資産と分けて考えることができる。これが企業の要請に合った。  山一証券で最初にこれに目を付けて動いたのが永田元雄だった。永田は京大卒の俊英で、法人営業の経験が長かったが、ある時期から行平を支える役回りに徹する。おりしも銀行の大口定期預金の金利自由化などによって、金融機関のあいだで法人預金の獲得競争が激化していた。証券会社は特金で、信託銀行はファンドトラストでこれに対抗した。とくに営業特金と呼ばれる、証券会社の判断で株式や債券を運用するファンドの比率が高くなっていった。  永田ファンドとは、この営業特金のひとつで、違法性が高い利益保証で資金を集め、それを会社ぐるみで運用する、いわば究極のいかさまファンドだった。それは右肩上がりの相場を前提とした、あなたまかせの相場依存商品であり、ひとたび想定外の株価暴落が来たら破は綻たんする。  破綻を延命するには粉飾決算をするしかない。そして困ったときには、新規公開株や三菱重工CBのような労せずして利益を生む商品を組み入れて、赤字を減らす。しかしそれはそのまま、健全な顧客にこうした魅力ある商品が行かなくなることを意味する。証券会社としての自殺行為だった。  危険を察知して、健全な経営に戻そうとするグループもあった。85年、永田ファンドが走り出して間もない頃、営業企画部長の吉よし田だ允まさ昭あきは、1000億円の永田ファンドが、すでに300億円の含み損を抱えていることに強い危機感を抱いた。そして各本部の公募株の割り当て株を使って赤字を消し、以後、公募株の割り当てを全社管理にする方針を打ち出す。  この時いったん収まった永田ファンドをめぐる対立は、86年以降のバブル増殖の過程で元の木もく阿あ弥みとなる。何よりも社長の横田自身が決算対策で、営業特金の1兆円作戦を声高に叫び、永田ファンドのリスクに眼をつぶってしまう。  そして成田の死によって、山一証券に残された最後の経営路線選択の可能性はおおい隠されてしまった。  10年後の97年11月22日に日本経済新聞が「山一証券が自主廃業へ」というスクープ記事を掲載し、11月24日、午前6時からという異例の取締役会で「自主廃業」に向けた営業停止を決議する。わずか30分の取締役会が、山一証券100年の歴史に幕を引く。  倒産後のさまざまな取材で、2600億円の簿外債務を秘ひそかに隠し続けることを決めた91年が、事実上、山一倒産が決まった時だったという見方が定着しつつある。  しかし本当に山一証券の死が確定したのは、それからさらに4年以上前、成田が死去した87年1月である。  もちろん行平次雄、三み木き淳あつ夫おという、バブルの最終局面から90年代にいたる二代の社長の経営責任を軽く見るつもりはない。「社内調査委員会の最終報告書」や「法的責任判定の最終報告書」が明らかにした、債務隠し工作に関わった関係者の責任を軽く見るつもりもない。  しかし、山一証券で起きた三菱重工CB事件と成田の自死の時期に、会長と社長であった植谷久三と横田良男こそ本当のA級戦犯である。法的に何の責任も負わなかったのも、この二人の代表取締役だった。 4 国民の心に火をつけたNTT株上場フィーバー  1987年2月9日、中曽根康弘政権下で、行政改革による民営化企業の株式公開第1号として、NTT株が上場される。上場翌日の2月10日、NTT株は一般売り出し値の119万7000円に対して、160万円という初値をつける。時価総額で約25兆円という日本一の企業が誕生した瞬間だった。  NTT(日本電信電話)は2年前の85年4月に、第二次臨時行政調査会(第二臨調)の民営化方針によって株式会社組織となっていた。翌86年4月には、蔵相の私的諮し問もん機関であるNTT株式売却問題研究会が株式の放出方針をまとめる。1560万株の発行済み株式数のうち3分の1を政府の保有義務としたうえで、4年間で780万株を売却するという内容で、初年度にあたる86年度には195万株を放出することになった。この方針に沿って国有財産中央審議会は、証券会社による入札方式で妥当な値決めをする方針を固め、第1次の売り出し幹事に、野村証券を指名する。  しかしNTT株の公開は、おりからの低金利によるバブル相場のなかで、予想を上回る大フィーバーとなる。このNTT株の公開をめぐる異様な熱気こそ、プラザ合意で始まった日本のバブルが国民レベルにまで広がり、価値観まで揺さぶり始めたことの証左だった。  実は株式公開の決定から実際の公開までの間にも、これぞバブルといわれるようなドラマが演じられた。 封印された「本音の試算価格」  NTT株のほんとうの価値はいくらなのか? 上場が決まった段階で、さまざまな立場のアナリストや調査部関係者がNTT株の実質的な価値を算出しようとするが、NTTが独占企業であり有力な同業他社が存在しないことや、通信事業が国によってまちまちな法規制によって縛られていることもあって、なかなか試算がむずかしかった。  それでも同じ公益企業である電力会社との比較などをしながら、各社各様に株価を算定する。私は当時、主幹事である野村証券系のシンクタンク、野村総合研究所の担当者から、企業価値をベースにしたNTT株の本音の試算価格を聞き出していた。それは「一株当たり50万円弱」という数字だった。しかし、野村証券の株式担当役員やそのチームの考えは違った。市場の雰囲気や、公開後の上昇を期待する商売上の判断もあり、80万円から90万円の価格を想定していた。  あとになって考えると、野村総研の試算はある種の妥当性を持っていた。しかし、この試算は野村証券によって永久に封印される。企業に最初の値付けをするときにさえ、企業のファンダメンタルな価値と株価のあいだに、乖かい離り(バブル)が生まれることを示す貴重な実例であった。  10月の証券会社による入札によって、個人投資家への一般売り出し価格は119万7000円と正式に決まる。86年11月の申し込み時には、申込者数が1060万人に達し、抽選倍率は6・4倍だった。87年2月、株主数165万人の壮大な公開企業が誕生する。  この数字をあらためて見てみると、NTT株の公開がいかに大きな実験だったかが分かる。申込数の1060万人は日本の人口の約1割である。また株主数の165万人というのは、当時の日本の株主数(延べ2000万人)に対しても8%となる。その相当部分は、これまで証券会社との取引関係がなく、株主になったことのない人たちだった。  日本の株式市場にとっては、国民を巻き込んだ壮大な実験だった。しかし、その意味と重さを十分に理解している人はほとんどいなかった。自分がNTT株式の売買でいくら儲もうかるかを、皮算用する人たちばかりだった。  公開後の人気も異常といえるものだった。おりからの土地高・株高のなかで、大衆の欲望に火がついていた。NTTが保有する広大な土地を評価する声もあった。第2次以降の売り出し幹事を狙ねらった、証券会社による売買シェア争いも株高に拍車をかける。  3カ月後の4月22日には、NTT株は高値318万円をつけるが、その価格で換算したPER(株価収益率)は300倍以上であり、合理的な指標で見る限り、もはや説明可能な範囲を超えていた。そして87年7月には安値225万円まで下げる。その後、ブラックマンデー前の戻り高値300万円から下げ局面を経て、89年10月には135万円になる。  注目すべきなのは、87年10月のブラックマンデーの暴落にもかかわらず、政府は87年11月10日に第2次の売り出し(売り出し価格255万円、195万株)、そして88年10月20日に第3次の売り出し(売り出し価格190万円、150万株)を強行したことである。  88~89年は、日本のバブル相場のピークだった。それにもかかわらずNTT株が低迷していたのは、この売り出しと表裏一体であることは間違いない。逆に言えば、バブル時代の最終局面だったからこそ、第3次までの売り出しをこなせたともいえる。  バブル崩壊後には、株価は90年中に第1次の売り出し価格119万7000円を割り込み、92年には、野村総研が試算した幻の妥当値50万円に迫る。  NTT株式の公開の功罪を、一口で語ることはむずかしい。最大の功は、なんと言っても日本の株式市場が、時価総額で25兆円規模の巨大企業の株式を受けとめるという離れ業を実現したことにある。銀行を通じた間接金融ではなく、株式市場を活用した直接金融の世界の新しい始まりだった。  NTT株の公開は、NTTによる新規の資金調達ではない。既存の政府株の放出である。87年という異様な投機の時代の流動性がなければ、これだけ大量の政府株の売り出しはスムーズにすすまなかっただろう。国営企業を株式会社、さらには公開企業として民営化のレールに乗せることに成功したのは、バブルの功といってもよい。  その反面、NTT株の公開は、その規模、株主数から言っても、預貯金に偏かたよった日本の個人の金融資産のなかに、株式投資をしっかりと埋め込んでいくための千載一遇のチャンスだった。しかし、公開価格に対してわずか2カ月で3倍近い価格に急きゅう騰とうし、結果としてその後10年単位の長期低迷を続けたNTT株は、そのための長期投資のモデルとはなり得なかった。  バブルは資本主義のエネルギーを増幅する。そして資本主義は、その功罪を運動のなかに巻き込みながら、深化し発展していくものなのである。  NTTの民営化と株式公開は、政治的にみても経済的にみてもバブルの時代を象徴するドラマだった。 通信にかけた二人の男  80年代という時代をチャンスと位置付けて、NTTの民営化と株式公開を、みずからの立場の上昇へとつなげようとした二人の野心家がいた。  一人は第71代内閣総理大臣中曽根康弘である。いま一人は、石川島播磨重工業の社長を経て、電電公社の最後の総裁となり、民営化NTTの初代社長を務めた、真しん藤とう恒ひさしである。二人は土ど光こう敏とし夫おという戦後日本システムの最後のカリスマによって結ばれていた。  中曽根の総理在任期間は82年11月27日から87年11月6日までの5年間。就任時には「田中曽根内閣」と揶や揄ゆされ、田中派のあやつり人形のように言われたが、退任時は傑出した宰相としての評価を得た。中曽根は「戦後政治の総決算」をスローガンにみずからの政権を立ち上げたが、それは同時に日本経済の総決算の時期でもあった。その時期を生かしきったのが中曽根政権だった。  中曽根は総理就任前の2年間、鈴すず木き善ぜん幸こう内閣で副総理として行政管理庁長官をつとめていた。81年に土光敏夫が第二臨調会長に就任したさいには、中曽根が要請をしたいきさつがある。総理就任後の83年に土光臨調がまとめた行財政改革の答申のなかの「増税なき財政再建」「三公社民営化」は、中曽根政権の政治課題そのものだった。  また、この時期はグローバリゼーションの流れが加速した時期だった。英国では79年5月4日にサッチャー政権が誕生し、サッチャリズムとよばれる徹底した規制緩和、民営化による新保守主義的な経済政策を推しすすめていた。特に、長年の労働党政策の結果、国営企業が増え、経済停滞と財政赤字が深刻になっていた英国経済にとっては、とりわけ民営化が政策面での切り札となった。84年に株式公開したBT(ブリティッシュテレコム)は、サッチャー政権の民営化のシンボルだった。  81年1月20日に誕生したレーガン政権も、レーガノミクスと呼ばれる新保守主義的な経済政策を推しすすめる。そして、航空業界や通信業界を筆頭に、独占禁止を掲げて自由化政策を推進する。そのなかでも通信業界のAT&Tに対する競争政策(独占禁止政策)の適用こそ、米国の情報通信産業が新たな世界のリーダーへと飛躍していく上で要かなめとなる政策だった。  世界中のあらゆる先進国において、通信はイノベーション(技術革新)の最前線にあり、公営の組織は、民営化が必ひっ須すとみられていた。  中曽根康弘は、とりたてて経済に関心のある政治家だったわけではない。また根っからの市場主義者でもなければ、小さな政府論者であったこともない。だが、同時代の保守政治家の中では、誰よりも風を読み、時代の流れに乗ることに長たけていた。「新保守主義」と「規制緩和」、そして「通信業界」というキーワードのつながりが見えて来たときに、土光臨調があげた日本国有鉄道(JR)、日本専売公社(JT)、日本電信電話公社(NTT)の三公社の民営化のなかでも、NTTの民営化を最優先するという課題が埋め込まれていった。  相前後して、日本の金融システムの閉鎖性に対する内外からの、とりわけ米国からの批判が高まっていた。83年のレーガン来日をきっかけとした日米円ドル委員会や、プラザ合意にいたる金融自由化と為替政策をめぐる軋あつ轢れきと調整の歴史は、中曽根の新保守主義的な側面を強調することになる。レーガン・サッチャー・中曽根康弘を新保守主義の三羽がらすとして印象づけることこそ、中曽根にとって国内的な立ち位置を固めるための戦略でもあった。  行革こそが中曽根政権のシンボルとなり、その目玉は「NTTの民営化」であり「株式公開」だった。  そして土光敏夫とのそれぞれの縁えにしが中曽根康弘と真藤恒を結びつけることになる。  真藤恒は、石川島播磨重工の社長として徹底した経営改革を進めた。「ドクター合理化」と呼ばれ、規格型の標準船で三菱重工業を造船業界のトップの座から引きずり下ろす快挙も演じた。しかし、造船不況の波はそれを上回る速度で襲いかかる。79年、大量の人員削減の責任をとり、社長を退任する。  その真藤の能力を惜しんで、電電公社総裁に推薦したのが第二臨調会長の土光だった。石川島播磨重工の元社長であり、経団連でも辣らつ腕わんをふるった土光は、真藤にとって名実ともに師であり、兄貴分であった。真藤恒は81年に民営化直前の電電公社の総裁に就任する。当時、行革担当の副総理は中曽根である。こうして土光を要に、中曽根と真藤という80年代の民営化路線の主役が出で揃そろう。  土光敏夫と真藤の師弟関係を通じて、電電公社の改革が事実上、民営化の最前線に躍り出る。83年9月6日、自民党の電電基本問題調査会の電電事業小委員会は、電電改革案を正式に決定し、中曽根康弘首相に提出する。  85年4月、電電公社は分割論議を封印して一社体制のまま民営化され、日本最大の株式会社に生まれ変わった。そして国民の関心も中曽根政権の関心も、87年初めに予定されている株式の売り出しや新規上場に移ってしまう。しかし、この時点でNTT上場後の通信業界の競争政策について方針を固めなかったことが、NTTの長期経営ビジョンにとって、ひいてはNTTの株式公開後の株価形成にとっても、大きなマイナスになる。  87年2月の株式公開以降のNTT株の暴騰とその後の波乱を、バブルの定めと言ってしまえばたやすい。しかし、政治家や官僚、NTTの経営者が、あるべき経営の姿や長期展望が描けなかったことも、混乱の大きな原因だった。  株式公開は、入り口に過ぎなかった。投資家からの信頼を受け、経営の長期戦略を打ち出し、残された売り出し株への信頼感を高めることが、NTT経営者の責任だった。また監督官庁である郵政省や、NTTに政治的な影響力を持つ政治家の責任でもあった。しかし、それを当事者として自覚している人はいなかった。  中曽根政権は、もはや最終局面に来ていた。中曽根はNTTの民営化をレールに乗せて国民の関心事とすることについては、たぐいまれな手腕を発揮した。しかし国民の共通の関心事である株式公開が終わったときに、彼の関心も終わっていた。  唯一、その責任を自覚していた人間がいるとすれば真藤恒だった。真藤にはNTTの社長としてNTTの新しい経営形態を作り上げる責任が残っていた。それは国内の激しい競争に生き残りトップの座を守れる体制の確立であり、情報通信産業の激しいイノベーションのなかで、国際競争でも存在感のある会社にすることだった。  しかし、自由民主党や郵政省や全電通(電電公社の労働組合)などとのさまざまな利害や軋轢にさらされるなかで、「分割」か「統合」かという根本問題に答えを出すこともできず、その理想は徐々に摩耗していく。  89年3月6日、真藤がリクルート事件で逮捕される。日本最大の株式会社の社長であり、80年代の民営化路線のシンボルだった男の転落だった。  リクルートコスモス社の未公開株を受け取り、「濡ぬれ手に粟あわ」の利益を享受した人間は真藤だけではない。有力政治家から官僚、マスコミ経営者、財界人まで多岐にわたる。  しかし真藤が社長をするNTTは、85年に民営化した後も、依然としてNTT法に基づく特殊法人だった。彼は「みなし公務員」だった。それが「リクルート社に対して、専用線の再販事業や米国製のスーパーコンピューターの転売などで便宜を図り、その見返りとしてリクルートコスモス社の未公開株一万株の譲渡を受けた」ことが、東京地検特捜部によって、収賄罪と見なされた。国策捜査だったという見方もある。  真藤逮捕後、NTTの株価は長期にわたる低迷期に入る。  87年のNTT株の公開をめぐる大フィーバーは、バブルのユーフォリアが国民レベルにまで広がったことを示す象徴的なイベントだった。  そしてNTT株で、一いっ攫かく千金の公開株を手に入れられなかった大衆の怨おん念ねん、嫉しっ妬とが、その後リクルート事件で、政治家、官僚、経営者に対する恨みとして、倍返しで襲いかかる。NTT株公開の狂乱が、リクルート事件を通じて政治不信を増幅し、結局は55年以降40年近く続いた自民党の一党支配体制さえ押し流してしまうのである。  当時は政治家も官僚も民間の経営者もそのことに気づく人はほとんどいなかった。気づいていてもその流れに逆らう空気は生まれなかった。 5 特金・ファントラを拡大した大蔵省の失政  1987年10月19日、ニューヨーク株式市場で株価が暴落した。ニューヨーク証券取引所のダウ工業30種平均株価は508・32ドル下がり、下落率は22・6%と過去最大を記録した。翌日の東京証券取引所の日経平均株価は、前日比3836円48銭安、14・9%の下落となった。  その後、日米欧の三市場の相互連鎖による市場の乱高下は約1カ月にわたって続き、一種のパニック状態となった。しかしあとから振り返れば、日本の株式市場は11月11日に2万1036円の底値を打って、上昇に転じていた。翌年4月にブラックマンデー直前の高値である2万6646円を上回ると、あとは一本調子となり、88~89年の狂乱のバブル相場の最終局面へと突入するのである。  ブラックマンデーのあとには、1929年の世界恐きょう慌こうとの対比がさまざまな観点から試みられた。しかし、現実の株式市場に対する答えは、アメリカ流に、きわめてスピーディーに、プラグマティックな結論が出される。  88年1月、直後に財務長官となるニコラス・ブレイディが委員長となってまとめた「株価安定化に関する特別レポート」(通称ブレイディ報告書)では、大規模な機関投資家が使っていたプログラム・トレーディングが暴落の主因とされ、特に、機関投資家の多くに使われていた「ポートフォリオ・インシュアランス」と呼ばれたヘッジシステムがやり玉にあがった。現在、市場を脅おびやかしている超高速取引の萌芽がすでにこのときからあったのである。  こうした機関投資家の主導で生まれる流動性の危機に対して、市場を管理する側からサーキットブレーカー制度が提案され、市場を価格制限などで管理する新しい仕組みが作られることになった。  ブレイディ委員会が整理し指摘したのは、ブラックマンデーの技術的な側面だった。しかし、それが市場の危機を解消したわけではない。  ブラックマンデーとは一体何だったのか。それは85年のプラザ合意による為替相場を最優先したアメリカ主導の金融市場調節が、わずか2年で壊れたことを意味していた。そして同時に、97年のアジア通貨危機、2008年のリーマンショック、そして16年の中国、そしてユーロ市場を含めた世界市場の波乱──カジノ資本主義と化した世界市場が、為替、金利、株価という三要素を巻き込み、世界で引き起こす混乱の予兆でもあった。  プラザ合意によって、三元三次方程式のうちの「為替」が、米国の意志で円高ドル安、マルク高ドル安という方向で固定された。しかし、残る「金利」「株価」の二項は、政治的に決められた為替相場の意志の通り動くわけではない。その矛盾は様々な形で市場にあらわれてくる。  87年春のルーブル合意は、機能不全に陥ったプラザ合意の1年5カ月後の政治的な修正であったが、すぐに機能しなくなる。ブラックマンデーの直前には、米国による西独、日本への強い金融緩和要請と、西独、日本の国内事情による金利引き締めの意図が、水面下でぶつかりあっていた。  株価暴落の引き金を引いたのは、米国の意図に反した西独の金融引き締めだった。西独が短期金利の高目誘導を行なったことに、米国のベーカー財務長官が激しく反発した。「ルーブル合意を見直すことも辞さない」。合意からわずか半年も経たたないうちに、通貨の安定を目指したルーブル合意の趣旨に反し、再びプラザ合意のような急激なドル安も辞さずという態度を示したのである。これが「米国主導の株価暴落」のきっかけになったと言われている。しかし、ベーカー財務長官はみずからの責任は棚に上げて、ブラックマンデーは西独のエゴイズムが引き起こした、西独の責任による暴落と考えていた。  株価暴落後の日本と西独の金融政策の違いは明らかだった。87年12月末の時点で、日本も西独も公定歩合は2・5%で一緒だったのが、それ以降、インフレを恐れるドイツ連銀は、88年7月と8月に公定歩合を0・5%引き上げ、更に89年1月と4月にも0・5%引き上げ、公定歩合は4・5%になる。  この間、三み重え野の康やすし日本銀行副総裁の再三にわたる「日本経済は乾いた薪の上に座っている」という発言にもかかわらず、公定歩合は2年以上にわたって棚ざらしにされ、ようやく2・5%から3・25%に引き上げたのは89年5月だった。この日米連携というよりは米国の強制による超低金利政策、西独とは明らかに違う金融政策が、日本のバブルの「薪」に火を付けたことは間違いない。 特金・ファントラの決算計上弾力化  だが、それだけではなかった。日本は政策においても、乾いた薪に灯油をぶちまけるようなことをした。ブラックマンデーから2カ月半後の88年1月5日に大蔵省が打ち出した「特金・ファントラの決算計上の弾力化と生保の運用枠の拡大を軸とした対策」である。  これを一言で言えば、3月期の決算期に、特定金銭信託とファンドトラストで運用している企業や機関投資家の財テク資金について、損失を表面化させないでいいから、積極的に財テクを続けてください、という政策だった。  当時、日本経済新聞で兜町の記者クラブのキャップだった私に、1月5日の午前、取材先の大蔵省の幹部から、緊急の呼び出しがあった。彼は「昨年のブラックマンデー、とりわけ年末にかけて広がった2月の株式市場の危機説に大蔵省として何とかしなければと考えている」と語った。その上で、危機対応策の概要を説明した。内容は、 『銀行(金融機関)』について、①低価法採用は維持する、②決算内容の悪い金融機関は個別指導する、③金融機関による益出しなどによる株式の売り圧迫を抑える 『生保』については①契約者配当の指標の総資産利回りは評価損を除いて計算する、②総資産に対する特金・ファントラの枠を3%から5%に拡大する 『事業会社』については88年3月期決算から低価法・原価法の選択性を採用する 『投資顧問』は株式の含み損・含み益を加えた新しい評価方式を実施する  というものだった。当時、ブラックマンデーの株価暴落で、事業会社は3月期決算の対応に四苦八苦していた。特金・ファントラの評価を低価法ではなく原価法でするということは、財テク企業にとっては、決算期に含み損を抱えている有価証券の損失を計上しなくても済むということだった。原価法を悪用して、運用に失敗していても見せかけだけの財テク利益を計上することを助長しかねない措置だった。  生保は当時、84年の為替の自由化以降積み増してきた外債投資が、プラザ合意以降のドル安で、巨額の評価損として膨らんでいた。その損失を3月期決算で計上しなくていいうえに、総資産の2%にのぼる資金を新しく特金・ファントラを使った財テク資金として国内の株式投資にふりむけることが出来る。生保の運用担当者には、監督官庁の大蔵省が「含み損のことは気にしないで株を買いなさい」と言っているように聞こえたことだろう。  1月6日の日本経済新聞本紙では一面5段、日経金融新聞では一面すべてをつぶし、その功罪を検証する紙面づくりとなった。  6日の東京株式市場は、朝方こそもみ合い場面だったが、後場にかけて全面高となり、大引けの日経平均株価は、前日比1215円22銭高の2万2790円50銭となった。上昇幅で見れば、前年のブラックマンデーの暴落直後の10月21日の2037円32銭高に次ぐ史上第2位の上げ幅だった。それまで手持ち株の値下がりで決算処理に不安感をもっていた生保・銀行など機関投資家がいっせいに買いを入れただけでなく、個人投資家も買い出動して、売買高は9億8000万株と、2カ月半ぶりの水準に膨らんだ。  振り返ってみれば、この日が88~89年にかけてのバブル最終局面の大相場の起点だった。  特定金銭信託は、86年には11兆6000億円増加、87年にも10兆円以上増加して、運用残高は30兆円に達していた。また運用残高に占める株式の比率も85年末の27%から、86年末には35%、そして87年の11月末には43%にまで高まっていた。  いつのまにか、特金は財テクのための会計上の仕組みでも何でもなく、営業特金という、事業会社や公的機関、生保などが、証券会社との間で取り結ぶ、「利回り保証」をした運用商品にかわっていた。違法性の極めて高い「にぎり」だった。  また運用のプロであるはずの信託銀行が運用するファンドトラストも、証券会社の営業特金と似たり寄ったりの、利回りを顧客に保証する商品に堕していた。 「バブルの時代には、信用創造を拡大しているだけなのに、なにか革新的な金融のように世の中に受けとめられるものが出現する」。早い時期からこう指摘し、警鐘を鳴らしてきたのは、日本の格付けの先駆者でもある三み国くに陽あき夫おだった。  1920年代のアメリカでは、大恐慌に到いたるまでミューチュアルファンド(会社型投信)が異常な信用の増幅機能を担になった。投資信託が投資信託を買い付け、またその投資信託が投資信託を買う。まるでねずみ講のような会社型投信が続出した。投資している株式の時価と、親ファンドの時価に大きな差があることなど気にもされなかった。  そして「昭和40年の日本の証券不況」では株式投資信託と、長期信用銀行が発行する金融債の運用預かりという制度が矛盾を増幅する役割を果たした。  80年代のバブルの時代は間違いなく、特定金銭信託、とりわけ証券会社が運用を一任勘定であずかる営業特金がその役割を果たした。 財テクの裏にも銀行融資  87年10月のブラックマンデーによる株価暴落は、ある意味では、特金・ファントラを使った運用を、まっとうな財テクのツールとして根づかせるチャンスだった。企業が長い期間にわたって保有した結果として得た値上がり益や、株式持ち合いなどの政策投資による株式の値上がり益は会計上、長期投資で計上する。  そして数カ月から数年単位の短期の運用については、特金やファントラを使って損益をきちんと把握する。そのためには、決算期ごとに、取得原価と時価のうち低い方の価格で株価を評価する「低価法」をきっちり守り、それを財テクとして定義する。  しかし肝心の企業や金融機関が、それを望まなかった。原価法によって、外からはわからない状態で含み損を隠しておき、利益に乗った投資だけを必要なときに必要なだけ売って操作できることが好まれた。企業にとっても金融機関にとっても運用の失敗が表面化しない便利な仕組みだった。  銀行は低金利であふれかえる資金を、企業や公的機関の土地投資に融資するだけでなく、特金・ファントラを使った資金運用にも融資することに力を注いでいた。融資先の企業が特金・ファントラの損失を確定させ、財テクから撤退して、融資を返済することが最も望ましくないシナリオだった。  財テクの時代などと華々しくマスメディアに取り上げられてはいたものの、企業も機関投資家も金融機関も、自己責任を意識してプロフェッショナルな決断をしていたわけではない。「リスクはとりたくない。でも財テクに乗り遅れたくない」。みんなで渡れば怖くないといった空気に身をゆだねていた。「財テクをやっているつもり」の資金の受け皿が、特金でありファントラだった。  88年1月5日の大蔵省の決断は、3月期決算の平穏と引き換えに、事業会社と証券会社と銀行の三者の相互無責任による財テクを温存し、矛盾を先送りするものだった。  大蔵省の幹部が、特金・ファントラの運用規制のテクニカルな細部をわかるはずもない。特金・ファントラの運用規制の緩和が、どういう矛盾を拡大して、どういう結果を生むのかということは考えてもいなかった。事業法人や機関投資家に、株の買い支えを促すことだけが狙いだった。唯一の共通認識は「ブラックマンデーによる世界的な株価暴落が広がって、世界同時不況のトリガーを引くことだけは困る」ということだった。  結果として、大蔵省の特金・ファントラ対策は、銀行の融資と運用がワンセットになったバックファイナンス付きの財テクを「推奨」し拡大する役割を担った。要するに、借金をしてでも財テクをすることを大蔵省が推奨したようなものだった。  山一証券だけでなく証券界があげて集めていた「利回り保証」付きの営業特金の存在を、違法性の高い商品と見なすのではなく、通常の営業行為とみなして放置したのである。  バブルの爛らん熟じゅく期きには、マーケットは自制心を欠いたすさまじい様相を呈する。のちにリーマンショックを予言しノーベル経済学賞を受賞したロバート・シラーのいうユーフォリア(熱狂)である。日本的に読み解けば「踊る阿あ呆ほうに見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」といった感覚である。  日経平均は、大蔵省が特金・ファントラ対策を打ち出した翌日の88年1月6日の2万2000円台から、89年12月29日の大納会の終値3万8915円87銭まで、ほぼ右肩上がりで上昇する。特金・ファントラの運用残高も、87年末の30兆円から89年末には43兆円に達する。  日本の株式の時価総額が米国の株式の時価総額を上回る。そして、〝世界の金融大国〟日本の金融政策に対する欧米の支援要請は一段と厳しさを増す。日米独のいわゆる機関車論による、金融緩和の持続である。  大蔵省証券局が遅まきながら、特金・ファントラを使った財テクの異常な実態に危機感を持ち始めたのは、89年の末になってからである。一足早く表面化した、大和証券の大口顧客に対する損失補ほ塡てん問題の処分を進める過程で、営業特金と呼ばれる、証券会社が一任勘定で運用している特金のほとんどが、「にぎり」と呼ばれる、運用成果を確約した違法性の高い特金であることを認識する。  大蔵省証券局は、12月26日に角かど谷たに正まさ彦ひこ証券局長名で、「営業適正化通達」を出す。その内容は「証券会社が運用している営業特金は1年以内に、運用の指示者を投資顧問会社に切り替える」という内容だった。それと同時に、通達には明記されていないが、90年3月期までに証券会社はいわゆる「飛ばし」(証券会社の帳簿上にはない、利回りを確約した運用資金)や「営業特金」を整理しなければならない、という行政指導があった。  この二つの条件を満たして解約がスムーズに進むためには、90年3月まで株式相場が大崩れしないことが前提だった。大蔵省は、その可能性に賭かけた。  しかし90年の年明け以降、株価は急落する。3万9000円近かった日経平均は、3月30日に3万円を割り込み、その年の10月には瞬間的に2万円を切る。  89年12月の角谷証券局長通達を、その後のバブル崩壊をもたらし、金融上の混乱を生み出したと批判する声が聞こえる。底の浅い批判である。角谷証券局長が決断したのは、88年1月に大蔵省が決断したバブルの原罪ともいえる失政の幕引きである。角谷通達は正しかった。しかし、いかにも遅すぎたのである。 6 企業の行動原理を変えた「財テク」  バブルをあおり増殖させた責任はメディアにあるのではないか。とりわけ日経の責任は重い──。  1990年のバブルの崩壊から「失われた10年」にいたる過程で、たびたび読者や取材先から聞いた言葉である。引きあいに出されたのが、財テクという言葉だ。バブルと財テクがワンセットで諸悪の根源のように語られていた。  確かに財テクという言葉を作り出し、日本中に広めたのが日経だったという歴史は否定できない。それは財テクという言葉が、日本のバブルの起源と興隆とに密接に関わっていたからである。 「ザイテク時代」というタイトルの企画は83年7月31日から9月6日まで、土日をはさんで30回連載された。担当部署は、私も当時所属していた日経の証券部だった。  コンピューターを活用したハイテク革命、グローバリゼーションによる金融自由化の加速度的な展開、間接金融から直接金融への移行、そしてフロー経済からストック経済への転換によって、企業は含み資産(含み益)の活用の時代を迎えていた。そして先端的な企業は、連結経営を目指したグループの財務・経理機能の一元化を目指し始めていた。  企業社会をとりまく環境が、グローバル化と金融自由化とコンピューター化のなかで大きく転換し、従来は黒子役だった財務・経理が、経営の中心へと移行しつつあったのである。それを説明するために使われたのが、「ザイテク」という言葉だった。  そして、「ザイテク」は「財テク」へと表現を変えながら、85年以降、社会のあらゆる分野で、あっという間に定着する。  当初の財テク論議を通じて明らかになったのは、企業が合理的な財務戦略のなかで、営業外収支の改善を明確な目標に据える経営に移行しつつあることだった。企業の利益をはかる尺度が、営業利益から経常利益に移ったのである。 商社が先陣を切る  財テクの勃ぼっ興こうは、グローバリゼーションと金融自由化の流れが生み出したものだった。正確にいえば、海外での自由化と日本国内の自由化のタイムラグを利用したのが、その始まりである。金融知識にたけ、グローバルな情報にたけていた大手商社が、財テクの先陣を切るのは、ある意味で当然のことだった。  80年代の前半からバブルの崩壊局面まで、日本の財テクの歴史と歩調を合わせるように積極的に新しいタイプの資金調達に取り組み、その資金の運用をグローバルに展開していたのは、三菱商事だった。  三菱商事の財務戦略をリードしてきたのが、太おお田た信しん一いち郎ろうである。82年、それまで7年間にわたり米国三菱商事で財務を担当した太田は、帰国して本社の財務部長のポストにつく。同時に、格付けを活用した証券発行で、低利の資金を活発に集め始める。この年の4月に三菱商事が発行する外貨建ての転換社債が、格付けで最上級のAAA(トリプルA)を取得したのをテコに、11月には日本市場で初の無担保普通社債を出した。83年5月にはユーロ市場で、日本企業で初めての金利スワップ付き普通社債を発行した。  また、太田は低利で調達した資金を、金融商品で積極的に運用した。特に87年以降、国内でCP(コマーシャルペーパー=短期資金調達のための無担保の約束手形)の発行が認められてからは、CPで調達した資金を、CPより金利の高いCD(譲渡性預金)や大口定期預金で運用して、利ざやを稼いだ。  三菱商事のCPの発行残高はバブルのピークだった88年には1兆円を大幅に上回り、一時期、日本のCPの発行残高の20%を超える時期もあった。89年3月期の三菱商事の営業収益が2兆円強という時代である。  太田の戦略は、グローバリゼーションをテコに国内外で資金の調達と運用を多様化して利ザヤをしっかりととることで、商社の財務部門を収益セクターとしてはっきり位置づけることだった。そして企業のM&Aを担当するセクションを作り、その金融セクションは取引先への融資だけでなく、財務のノウハウやソフトを積極的に売り込む役割も担っていた。  要するに、欧米流の投資銀行を商社の社内に作り上げようという構想であった。  こうした積極的な金融業務への展開は、「商社は銀行借り入れに依存しすぎている」という太田のかねての持論とあいまって、金融界にさまざまな波紋を投げかけた。そして三菱商事の社内にも軋あつ轢れきを生んだ。  わかりやすい例は、「為替リスクの相そう殺さいに財務部門が協力してくれない」という不満である。また財務部門が安いコストで資金調達をしながら、社内融資のレートは下がらないことに営業部門の不満は鬱うっ積せきする。86年から財務部門をプロフィットセンターとして部門別損益を独立してはじき出す体制にして、90年までの5年間で1100億円の利益をあげたということも、営業部門にとっては不満のたねとなった。  太田のチャレンジは、社内においては、財務部門は収益部門なのか、それとも営業部門の補助をする管理部門なのか、というテーマを投げかけた。営業利益から経常利益の時代になったといわれるが、その功績は財務部門に帰属するのか、営業部門に帰属するのかという、会社としての、またサラリーマンとしての根本的な評価の問題にかかわっていた。  また社外では、直接金融を通じた低コストの資金調達が可能になったことで、今までの取引先だった銀行との関係が薄まった。三菱商事自体が、金融機能を持ち始めたともいえる。太田は、「財テク」の申し子だった。  しかしバブルの時代が訪れていた。三菱商事も、バブルの時代が本格化するにしたがって、プロフェッショナルな財務戦略による利幅が減少し、土地高・株高が生み出す異様な値上がり益に圧倒されるようになる。証券会社や信託銀行との関係に頼った営業特金、ファンドトラストという「利回り保証型」の財テク商品に傾く社内の趨すう勢せいを押しとどめることはできなくなっていた。太田にとって不本意な時代の始まりだった。 財テクの雄・阪和興業  88年頃、日本銀行の澄すみ田た智さとし総裁が、友人である日新製鋼会長の阿あ部べ譲ゆずるに「阪和興業という会社はすごいねえ」と語りかけたという。阿部は元新日鉄副社長で、鋼材営業が長い。その阿部からみれば、新日鉄出入りの一鉄鋼商社にすぎなかった阪和興業の名前が、日銀総裁の口から出たことに呆ぼう然ぜんとした。  澄田は阪和興業の外国為替市場での売買を「すごい」と言ったのである。当時、阪和興業の為替売買は一日で1000億円を超すこともあり、スイスの銀行が為替売買で「チューリッヒの小鬼」と呼ばれるのをもじって、阪和は「東洋の小鬼」と呼ばれていた。  北きた茂しげる社長が、兄で創業者でもある北二じ郎ろうから経営のバトンを受けてから、わずか5年で究極の財テク企業に変身していたのである。  北は当時、「日経ビジネス」のインタビューに答えてこう語っていた。「創業から36年掛かって290億円しかできんかった自己資本が、私が社長になってわずか5年で1700億円になるとは誰も思わんよな」「銀行と持ち合った株が8000万株あって、これがやっぱり1000億円くらいの含みがある」「土地だって簿価50億円が2500億円になるよ」。そして気がつけば、自己資本では、三井物産、三菱商事、丸紅、伊い藤とう忠ちゅう商事、住友商事に次ぐ第6位に位置し、売上高純利益率では、三菱商事をおさえてトップに躍り出ていた。 「すごいね」と言った澄田には、阪和興業が本業の鉄鋼取引においてどれほど堅実であり、関西流の薄うす口こう銭せん主義に貫かれた鉄鋼商社であるかという顔は見えていない。そして阿部の方は、鉄鋼の問屋として成功した北の成長主義が金融と繫つながったとき、そこにどれほどのリスクがあるかを見ていなかった。  そして北茂は「こんな利益率の高い財テクをやめるわけにはいかない」と言い切り、みずからの成功体験に酔いしれていた。長兄で会長の北二郎、次兄で元専務の名な出いで良りょう作さくに対して明確に反旗を翻ひるがえすことこそなかったものの、「私が最初から社長をやっとったら、会社を今の10倍くらいにしとったよ」とさえ言った。  阪和興業の従業員1000人強のなかで、財テク部門にたずさわっているのは為替のディーリングの担当者6名を加えて、わずか10名だった。全体の1%の従業員が、本業部門の倍以上の財テク収益を稼ぐという、何とも異常なバランスが88年当時生じていた。しかし、これは阪和興業だけではなかった。それ以外の財テク企業にも程度の差はあれ、言えることだった。  気がつけばCPの発行残高を含めた阪和興業の総資産は10兆円を上回っていた。そして特金・ファントラの残高は6000億円、その大半は、株高を前提にあらかじめ利回りを約束した証券会社や信託銀行との「にぎり」だった。  89年春、社内から初めて声があがった。大阪の鉄鋼営業担当の専務、寺てら田だ俊しゅん三ぞうが「限度額を決めた財テクにしましょう」と、北茂に諫かん言げんした。営業部員の思いをこめた提案でもあった。北は耳を貸さなかった。寺田はこの年の5月に専務を退任する。  そして8カ月後の90年1月、株価は大暴落を始め、一度も反発することなく、94年に北茂社長は退任する。後任社長には北二郎の息子である通産官僚出身の北修しゅう爾じが就任し、再建と向き合う。  寺田は、99年に亡なくなった北二郎の愛まな弟で子しだった。『追想北二郎』のなかで、寺田はこう述べている。「然しかし一度だけ北二郎会長の意に反し行動したことを今でも申し訳ないことをしたと思っている。平成元年、当時社長だった北茂氏に、財テク中心の経営に対し、取引先や社員の批判を集約して、限度を決めた財テクを進言したが、かえって反発を受け、専務を退任することで何かの警鐘にでもなるかと考え辞任を申し出、了解をとった。北二郎会長に事情を説明すると大変驚かれ翻意する様説得されたが世の中、財テク一色の時代だけに私の真意が判わかってもらえないと判断し、又自分の誇りを失いたくなかったのでお断りした」とある。  寺田が守りたかったものとは、一体なんだったのだろうか。  職人商社の伝統だろうか。阪和興業の存続だろうか。あるいは同族経営の歴史だろうか。  阪和興業については、株価暴落後の経営危機や、損失補塡をめぐる山一証券の倒産との関係などは、すでに多く知られている。ここで整理しなければならないのは、財テク企業阪和興業の原点が、経営者の経営戦略によって積極的に選ばれたというよりは、金融自由化によって内外の証券市場から低コストで資金調達が可能になったという、環境によって生み出されたということである。  80年代前半の阪和興業の振る舞いは、感度のよい財テク企業として当然の行動だったのである。  転換社債、ワラント債、そしてCPなど、主に海外の証券市場を舞台として、日本の証券会社の現地法人や、日本の銀行が経営権を取得した海外銀行(住友銀行系のゴッタルド銀行など)との間で、激しい市場獲得競争が始まっていた。  トップにリーダーシップがあり、即断即決のできる企業として、阪和興業はまたたくまに財テクの輪の中心に育っていった。とりわけ他の大手商社や有力企業に先駆けてワラント債の発行を決断したことで、財テクのスタートラインで優位に立つことが出来た。想定外の自己資本増加を実現し、阪和興業に実力以上の資金力を付けた。  問題は85~86年以降の証券会社、信託銀行による営業特金、ファンドトラストの時代である。資金調達コストに、目標金利2~3%の上乗せを事実上約束した「にぎり」特金、「にぎり」ファンドトラストを、阪和興業はやみくもに拡大した。北茂社長は「信頼できる証券会社、信託銀行の約束は守られるもの」と公言していた。メディアや関係者にも、金融機関や証券会社の名刺に書かれた運用利回り保証の念書を見せていた。  市場で変動する株式価格を金融機関に約束させ、「利ざやを確定した」と称する企業の財務責任者が「財テクのプロ」と呼ばれることは、今振り返ってみれば、誰が考えても奇妙なことだった。  財テク企業阪和興業の終しゅう焉えんは90年以降明らかになる。北茂社長をはじめとする阪和興業の経営陣に欠落していたのは、上場企業としてのガバナンスと、変動する市場のリスクへの自覚だった。  ガバナンスの欠落の第一は、寺田俊三専務の諫言に対する、阪和興業全体の無気力な反応である。そして第二は、メインバンクの住友銀行が、融資先に対するチェック機能をなんら果たさなかったことである。それどころか阪和興業から支払われる年間数十億円の為替手数料を維持することが、住友銀行の阪和興業担当者の最大の責務だった。第三は、主幹事証券会社としての山一証券の無力さである。山一証券は、その違法性を認識しながらも営業特金を組織ぐるみで拡大する路線をひた走り、阪和興業に対しては行平次雄社長印の入った念書まで提供していた。  日本の金融システム全体が、北茂社長の行動をチェックするどころか、利益共同体として相乗りしていたのである。  異常な時代だった。北茂の行動を異常だと考える人は少なかった。稲いな山やま嘉よし寛ひろ経団連会長(元新日鉄会長)が、87年10月に亡くなる少し前に、経団連の公式の会合で、新日鉄の取引先でもある北茂に「君のところはうまい商売をやっているんだってなあ」と語りかけたことが伝わっていた。 三菱商事と三井物産の運命を分けたもの  一方、三菱商事では、86年ごろから増え始めた特定金銭信託とファンドトラストの残高は、ピークの89年3月期末には8610億円に達していた。ファンドトラストの契約に際して、信託銀行は三菱商事に「実際には確定金利の定期預金」のようなものだと説明しており、「契約に際してはおおむね8%プラスアルファの目標が設定されていた」。  合理的なさや取りをはるかに上回る〝確定利益〟が、信託銀行によって保証されているという現実がみえたとき、太田副社長以下、三菱商事の財務部門も、株高・土地高という幻想を、みずからの運用能力の代わりに選択したのである。80年代前半に颯さっ爽そうと登場したアメリカ帰りの財務部長の「財テクの理想」の終焉だった。  90年の株価急落以降、三菱商事もあわてて特金、ファントラの契約を減らしにかかる。それでも92年3月末の時点で、まだ4033億円残っていた。三菱商事は93年3月期に、三菱商事本体で400億円、MCファイナンスで280億円の損失を計上する。太田は最後までグループの三菱信託銀行のファンドトラストへの訴訟を考えるが、三菱商事の社長で、アメリカ帰りの合理主義者槇まき原はら稔みのるはそれを認めなかったという。三菱グループの論理がそれを許さなかったのである。ファンドトラストの問題を顕在化させたくないという大蔵省銀行局の意図もあった。  三菱商事のライバルとも言える三井物産の財テクはどうだったのか。86年6月、福ふく間ま年とし勝かつは三井物産の資金部長に就任する。バブル時代の幕開けだった。しかし、バブル崩壊後に明らかになる三井物産の特金・ファントラの運用額は、他の大手四社に比べて圧倒的に少なかった。  三井物産の財テクの痛みが少なかったことについて、当時はIJPC(イランの化学プラント)の不良債権問題の処理があり、財テクをやりたくてもできなかったのだと聞こえよがしに解説する同業他社もあった。しかし、事実はまったく逆だった。当時は借金をして財テクをする、いわゆるバックファイナンス付きの運用が真っ盛りだったからである。やろうと思えば、三井物産はいくらでも資金を集めることが出来た。  それどころか、88~89年には経営会議で、なぜ特金・ファントラをやらないのかという社内の役員陣の猛攻勢に、福間はたった一人で立ち向かっていた。  福間はみずからの信念を自著『リスクに挑む』のなかでこう述べている。「証券会社や信託銀行の言うような『損は出しません。必ず利回りを保証します』という『握り』を私は全く信じていなかった。約束があるのだから、損をすることはない。あるいは、万が一、損をするようなことがあったとしても、どこかで埋めてくれる──そう信じてあの財テクに突入していった企業がほとんどだろう。実際『いまどき固定金利で運用するなど愚の骨頂、握りをやればいいんです』と公おおやけの場で話していた有力企業の財務担当役員までいた時代である」。  経営会議の苦境を救ってくれたのは、八や尋ひろ俊とし邦くに会長のひとことだった。「現場の部長がやらないと言っているのだから、しょうがないぞ」 「もしあのとき、経営会議で八尋会長が財テク積極論の流れを止めてくれなかったら、あるいは、もし、あと一年、90年に入ってからもバブル相場が続いていたら、私は財務部長の職にとどまっていることができなかったかもしれない」と福間は言う。  バブルの最終局面は、そういう時代だったのである。  会社の経営をぎりぎりのところで守るのは、運や偶然ではない。いつの時代も、現場への信頼と、組織としての規律、そして経営者の決断である。  太田信一郎と福間年勝は二人とも、モラルも能力も高い財務マンだった。三菱、三井の二大商社で、財務マンの最高ポストといわれる副社長にまで上りつめた。それでも、太田は心ならずもファンドトラストの罠わなにからめとられ、巨額の損失を出して詰め腹を切らされる。そして福間は財務マンとしての職務をまっとうするが、肉体をむしばまれ亡くなる。バブル時代が生んだ不条理でもあった。  それに比べて、阪和興業の財テクはあまりにもお粗末だったと切って捨てることはたやすい。しかし、北茂の異常な財テク規模の拡大を阻止することもなく、銀行や証券会社は砂糖にむらがる蟻ありのように、阪和興業の支払う金融・証券の手数料にすり寄っていった。  阪和興業は90年代に入り、鉄鋼商社としての本業に回帰して、経営を立て直す。奇跡に近いことである。阪和興業の関係者はそれを、長いあいだ積み上げてきた阪和興業の信用が生きたと言う。その思いを否定するつもりはない。  しかし生き残れた最大の理由は、累るい計けいで3300億円にのぼる特別損失に見合う償却をする体力があったことである。原資となる自己資本、銀行株の含み益、土地の含み益などをやりくりしたうえで、減資をすることが出来た。それは、北茂社長が積み上げた財テクバブルの遺産を活用することで可能になった。  また、阪和興業の株価は90年の4460円の高値から、98年には81円の安値を付けた。株主の壮大な痛みによって、阪和興業が企業として生き残っていることは、忘れてはならないだろう。  阪和興業の危機は、バブル崩壊の直後に表面化した。メインバンクの住友銀行や日本興業銀行、そして有力取引先の新日鉄も、まだバブル崩壊の痛みを深刻には受けとめていなかった。それが、メインバンクの支援を得ることが出来た大きな理由である。当時の関係者の一人は「阪和問題が5年後に起きていたら、間違いなく倒産していました」という。  日経が生み出した「財テク」という言葉は、その内容をしっかりと吟味して定着させるべき言葉だった。「営業利益」から「経常利益」が企業評価の新しい基準になることは、同時に、為替、金利、株式などの市場のリスクが、営業外の収益を通じて、経営を大きく左右する時代を迎えたということだった。  しかし、バブルの渦のなかで、リスクの意味は過小評価され、バブル崩壊によって一気に顕在化することになる。  1988年から89年にかけて、日本に狂乱の時代が訪れた。日本全体が土地高・株高を前提とした未来図を描き、熱狂(ユーフォリア)の渦の中に巻き込まれていった。バブルを謳おう歌かする財テク企業には、特金・ファントラによる「にぎり」が横行していた。株や不動産だけでなく、絵画などの美術品が買い漁あさられ、法外な値段のゴルフ場会員権が飛ぶように売れた。お金だけが価値の尺度になり、表の世界と裏の世界が渾こん然ぜん一いっ体たいとなった異常な時代だった。  そうした異常な時代のメリットを最大限に活いかして、バブル紳士たちが跋ばっ扈こした。彼らは成り上がることを夢見つつ、企業買収などでエスタブリッシュメント社会に揺さぶりをかけた。  当時、官僚や銀行の幹部の口からは「株屋(証券会社)の行儀の悪さを何とかしなければ」「成り上がりの不動産屋を締め上げなければ」というセリフが何度も発せられた。しかしそれは正しい評価だろうか。バブルの時代の咎とがは、ほんとうは誰にあったのだろうか。 1 国民の怒りの標的となったリクルート事件  バブルは資本主義の力を増幅する。バブルの時代とは、株高・土地高がもたらす資金力をテコに、野心家たちが古い日本に揺さぶりをかけた時代でもあった。  バブルと聞いて、リクルート事件を思い浮かべる人は多いだろう。  1988年から89年というバブルの時代の最終局面で事件化し、藤ふじ波なみ孝たか生お元官房長官や真藤恒元NTT会長、加か藤とう孝たかし元労働省次官、高たか石いし邦くに男お元文部省次官の逮捕、そして竹下登内閣の総辞職にまでいたった、昭和最後の疑獄事件である。だが、四半世紀を経過したいま、この事件を正確に総括し、評価できる人はほとんどいない。  リクルート事件と聞いて国民の99%がまず思い出すのは、犯罪にかかわる部分ではない。江え副ぞえ浩ひろ正まさリクルート社長が、子会社のリクルートコスモスの未公開株を自民党の有力政治家や官僚、日本の有力経営者、マスコミや大学関係者に配ったこと。そしてそれを受け取った関係者が、一件あたり数千万円単位の利益を享きょう受じゅしたという事実である。ちなみに配ったといってもタダではない。バックファイナンス付きではあったが、大体一株3000円程度で譲渡された。公開初値は5270円だった。  一部の権力に近い人間達だけが「濡ぬれ手に粟あわ」の大おお儲もうけをしていることに対する庶民の怒りが爆発したことこそ、リクルート事件の本質だった。おりから、消費税の導入を89年4月に控え、庶民は痛税感を覚える一方で、株式市場の異様な熱狂は、株式市場や土地でバブルの恩恵を被こうむっているものたちがいることを見せつけていた。持てる者と持たざる者の格差をはっきりと意識させる時代だった。  未公開株の譲渡自体には違法性はなかった。しかし庶民の怒りには根拠があった。検察はその怒りに乗じて、二つの事件を立件する。  一つは、NTTの通信回線の「リセール」問題、そして今一つは、文部省の「就職協定」問題である。この二件について便宜供与があったとされる。いずれも行政による規制緩和が不十分なために起きた事件であり、そもそも真藤NTT会長や労働次官や文部次官が、みずからの権限に基づいて政治判断を下すような案件ではなかった。  しかし、彼らは未公開株を受け取っていた。真藤は民営化直後のNTT社長であり、「みなし公務員」でもあった。真藤や江副を含めた関係者たちは、怒りを振り向ける格好のターゲットとして立件された。  ジャーナリストの田た原はら総そう一いち朗ろうは、2010年代に入ってから、リクルート事件が「国策捜査」だったと判断し、当時の国家権力の動きについてまっとうな批判を展開した。  いずれにしても、リクルート事件は、戦後もっとも革新的に情報・通信業に取り組み、事件がなければその後も日本の情報革命をリードし続けたであろう一人の経営者の未来を永久に葬ほうむった。  江副浩正は企業家精神に富んだ経営者だった。リクルート事件がなかったならば、ソフトバンクの孫そん正まさ義よしの一世代前に、情報通信分野のスーパースターになっていたのではないか。  一方で、彼は奇妙なコンプレックスにとりつかれた男でもあった。東大新聞における実績を基礎に始めたリクルートは、就職広告という古くて新しいメディアを作りだした。しかし、江副はリクルートでやってきたことについて引け目を感じ続けていた。自分のやっていることは所しょ詮せん、企業社会の最下層と見下されがちな広告業界のなかでも、さらに低い位置にある仕事ではないかという思いだった。当時まだ広告業を、とりわけ江副のかかわる就職広告の世界を下に見る風潮は強かった。  そして、情報通信の分野に早くから情熱を注ぎ、プライドを満たせる新しい業務へのチャレンジを試みた。しかし、ここでも大きな壁にぶち当たる。  85年4月に、京セラの稲いな盛もり和かず夫おを創業者として、電電公社社員だった千せん本もと倖さち生おを専務に、第二電電がNCC(新電電)の一つとして華々しく発足する。現在のKDDI(au)の前身である。  ウシオ電機の牛うし尾お治じ朗ろうら革新派の財界人が多数参加した新電電の本命だった第二電電に、江副も熱烈に参加を希望した。しかし思いはかなわなかった。稲盛が江副を嫌ったという。当時、第二電電に参画した経済同友会を舞台に活躍する財界人や、リクルート事件で株式をもらっていた何人かの人々も、江副が第二電電に参加することに反対だった。  江副が、通信の本丸ともいえるNTTの真藤恒に直接アプローチする手段を考えたのには、こうした背景があった。 江副は何を間違えたのか  リクルートグループには、不動産会社のリクルートコスモス、金融会社のファーストファイナンスという、急成長する二つの兄弟会社があった。「土地」と「金融」、結果的にはバブルの元凶となった二つの機能をになう会社だった。  江副は自分が経営者だった時代には、リクルート本体の株式公開を許さなかった。土地のリクルートコスモスと金融のファーストファイナンスという二つの会社を手っ取り早く公開して儲け、本丸の情報通信産業につぎ込む、というのが江副の目算だった。  しかし、江副の中には悪魔が同居していた。不動産や金融の活況をにらみながら、バブル社会の土地高や株高を使って儲けることの方がおもしろいのではないか、という囁ささやきが聞こえた。リクルートのような利幅の薄い本業よりも、魅力ある分野だと考えてもいた。  稲盛は、江副のこうした卑いやしさを心底嫌っていた。不動産、金融で稼ぐことを、本業の価値と峻しゅん別べつしない江副の経営観、あえていえば品性を嫌っていた。  戦後の経営者群像を振り返ってみるとき、大衆から尊敬される経営者には、二つの条件がある。一つ目は、企業が持続的に成長して利益をあげていることである。そして二つ目は、大衆がほんとうに認める商品を作り出し、それで本業のビジネスを創つくり出していることである。  戦後の第一世代には、松下電器産業の松下幸之助、ソニーの井い深ぶか大まさると盛もり田た昭あき夫お、そして本ほん田だ宗そう一いち郎ろうがいた。彼らは、テレビや冷蔵庫、自動車を、安くて誰でも手に入れられるものにした。そして大衆消費社会を作り上げたのである。  第二世代にはダイエーの中なか内うち㓛いさお、イトーヨーカ堂の伊い藤とう雅まさ俊としがいた。彼らは、製造業と正面から対たい峙じし、価格破壊によって消費者の生活を改善した。その代わり、生産性の低い地域の商業を壊し、百貨店ともぶつかり合うことになった。  では、第三世代の江副は何をしたのだろう。広告の世界でリクルートがしたこと、そして情報通信の世界への夢は、四半世紀たってみれば、間違いなく革新だった。しかし、バブルの時代に不動産に走った企業が演じた役割ははっきりしている。土地価格の異常な高こう騰とうを通じて、消費者の生活を追い詰め、大衆の代わりに利益を得たのである。そして江副は土地高で儲けるリクルートコスモスの未公開株を、権力者たちにまき散らした。  江副が頭角をあらわし活躍した時代は、バブルの時代と重なった。資本主義の原点でもある、経済成長と国民の生活水準の向上が同時に実現する幸せな時代は終わりつつあった。都心の土地や不動産の価格は、社会の健全な発展を支える中産階級には手の届かないものになりつつあった。江副は、社会に撃たれるべくして撃たれたのである。  リクルート事件は、違法性のない株式取引であっても、社会の不公正の感覚と結びついた時に、どれくらいの破壊のエネルギーが生まれるかをはかる、格好のモデルだった。しかし、リクルートだけがそれを引き起こしたのではない。前年のNTT株の公開が、株式市場への国民的な関心に火をつけていた。  株式公開から数週間で、庶民の年収に匹敵するような値上がり益を得ることができる株式投資。しかし、それは国民のすべてに開かれているように喧けん伝でんされながら、実際にその果実を手に入れられるのは限られた一部の人だけだった。そしてリクルート事件では、社会的に恵まれた人々が、とりわけ消費税導入を決めた自民党政治家の重鎮のほとんどが、リクルートコスモス株を水面下で受け取り、庶民がNTT株で稼いだ金額よりはるかに大きな利益を得ていた。しかも公開直後に売ってしまえば、株価下落のリスクもない。  多くの人々が、バブルの時代のユーフォリアの中で、みずからの価値基準を失いつつあった。企業社会に生涯所属して、生き真ま面じ目めに働き続けることの「割りの悪さ」を人々は感じ始めていた。そして「濡れ手に粟」の果実がみずからの手の届かないところにあることが解わかったとき、それは怒りにかわった。株式取引に対する不信感でもあった。 帝人事件との類似性  昭和9年(1934年)に起こった「帝人事件」とリクルート事件の著しい相似性は興味深い。  帝人事件は、政財官を巻き込み、時の斎さい藤とう実まこと内閣の総辞職を誘発した、昭和最大の疑獄事件である。当時の若手財界人の集まりである「番町会」のメンバーを中心に、台湾銀行に眠っていた帝人株を、台湾銀行の幹部と合意の上で引き出し、その株を投資家に割り当てた。昭和恐きょう慌こうの直後、帝人の親会社であった鈴木商店の倒産によって、担保として台湾銀行に入っていた持ち株だった。  その際に、政治家や官僚、財界人にも幅広く株がばらまかれた。彼らは不当な利益を得たのではないか、また贈ぞう賄わい・収賄があったのではないか、というのが疑惑の内容である。そして、検察を動かしたのは、時事新報による「番町会を暴あばく」というタイトルの大キャンペーンだった。  時事新報を指揮して、キャンペーンを張ったのは、鐘紡社長として経営者の評価を高め、福沢諭吉が創刊した時事新報の再建に乗り出していた武む藤とう山さん治じであった。リクルート事件で朝日新聞が果たした役割と重なる。  世界恐慌後の大不況の中で国民の苛いら立だちが高まるなか、検察は国民の怒りをバックに、帝人事件の当事者を起訴し、過酷な拷ごう問もんを科した。  足かけ3年、265回に及ぶ帝人事件の公判で争われたのは、検察捜査の横暴による被告たちの「虚偽の自白」や、様々な政治勢力の介入でもあった。最終的に判決の根拠となったのは「株価上昇の予測は可能かどうか」というポイントだった。 「株式価格の常態相場を確定せんとするごときは、これをたとうれば、あたかも水中に月影を掬きくせんとするの類たぐいにして──(個人の)主観的試みとして、あるいは許されざるにあらんも、万人に妥当するものにあらず」。37年12月16日、東京地方裁判所が「帝人事件」に下した無罪判決文の一節である。  これは帝人事件の主任判事の一人で、戦後、最高裁判所長官を務めた石いし田だ和かず外との書いた判決文である。「掬月影於水中」という言葉は、帝人事件の被告の無罪判決を伝える新聞の見出しにもなった。  石田は69年、雑誌に発表した随想で「背任罪については株価の将来の値上がり予測の可能性ということが問題の核心であり、検察官の論証の一つに、利回りから逆算すれば株価は予測できるとの主張があった」としたうえで「左様な論旨が容認できないことは、経済人なら容易に納得できることであろう。裁判官としては、この主張の採り得ないことを何か強い言葉をもって表現する必要があった」と回想している。  検察側の、帝人株の上昇は増資や金利予測によってわかっていたとの追及に対して、16人の被告のリーダー格だった河かわ合い良よし成なり(戦後に厚生大臣、小松製作所社長を歴任)は、法廷で「株の値段というものは一つの原因で決まるものではない。人間の想像もできぬような原因が結合している」と回想した。  時事新報が名付けた「番町会」は、郷ごう誠せい之の助すけを中心にした財界人の集まりであり、渋沢栄一を信奉するリベラルな新興財界人の集まりだった。「遠からず番町会を中心とした内閣が出来るのではないか」といった声が上がるほどだった。これに対し、時事新報は福沢諭吉の流れを汲くむ新聞だった。  陸・海軍と政権の間にはさまざまな対立があり、三菱・三井の財閥体制は、番町会のような新興財界人の跳ちょう梁りょうを疎うとましく思っていた。渋沢栄一の資本主義に対して、福沢諭吉の流れが敵意をぶつけ、岩崎弥太郎が生み出した三菱財閥が排除に動いた。  あとから振り返れば、帝人事件は日本がリベラルな資本主義から、大政翼賛型の資本主義に移行する節目の事件だった。  しかし、この時代に経済人としての理念をしっかりと持った裁判官がいたことを忘れてはならない。また、河合良成をはじめとしたリベラルな資本主義を信奉する経営者たちがいて、戦後の日本で、再び渋沢栄一の意思を体現した資本主義を立ち上げたことも覚えておきたい。 検察といういびつな仕組み  政財官の癒着や腐敗に対する国民の苛立ちと、新興財界人に対する嫉しっ妬とや憎ぞう悪おが高まっていたことは、帝人事件とリクルート事件の共通項として見逃すことはできない。また、庶民の株式取引に対するえもいわれぬ不信感が底流にはあった。  江副浩正は、リクルートの公判の過程でも、たびたび、「株価の予測不可能性」を持ち出しつつ戦った。しかし10年以上に及ぶ裁判の結果は、江副有罪だった。リクルートコスモスの未公開株の賄わい賂ろ性せいも認められた。  先に取り上げた三菱重工CB事件(第2章3)でも、転換社債の配分先は、総会屋だけではなく、政治家、官僚など広範にわたっていた。しかし、現金の授受同様の「利益確実な証券」の賄賂性は問われなかった。この違いはどこで生まれたのか。三菱重工CB事件とリクルート事件のあいだに出た殖産住宅事件の最高裁判決が、その根拠だったといわれる。歴史に残るバブル相場のなかで、一つの判決によって、180度違う判断を生む司法の現実とは何なのだろう。  検察とメディアは、自民党一党支配のもとで、野党に代わって権力のチェック機能を果たして来た。制約条件のなかで「正義」を実現するといえば聞こえはいいが、民主主義や市場経済をほんとうに信頼するのではなく、ご都合主義で検察が正義の基準を決めて立件する仕組みだった。55年体制が生み出したいびつな体制だった。  リクルート事件は、そのいびつなチェックのメカニズムが作動した事件だったと言えないだろうか。間をおかず、昭和の時代が終わり、バブルが崩壊し、自民党政権も終わる。  驚くべきは、リクルートという会社の生命力である。88年に江副はリクルートの会長を退き、92年に持ち株をすべてダイエーの中内㓛に売却する。しかし戦後経営者の中でも傑出した創業経営者である中内も土地バブルの崩壊で滅んだ。  そして、リクルートという会社を根城に、新規分野を開拓し続けた社員経営者たちは、膨大な債務を返済し、江副、中内と渡った株式まで買い取り、ついには上場を果たした。株式や土地による手軽な金儲けよりも、新規事業に挑む精神が結局は企業を成功に導くという、絵に描いたようなイソップ物語の教訓がここにはある。そしてリクルートはいまも隆々として、ユニークな人材を社内外に輩出し続けている。  一方、夢破れた江副は、公判中も個人での株式売買に明け暮れ、2013年に帰らぬ人となった。 2 1兆円帝国を築いた慶応ボーイの空虚な信用創造 「100億円をあなたに預けるといったら何に使いますか」と高橋治則に問われたことがある。高橋治則のイ・アイ・イ・インターナショナル(以下EIE)が、日本長期信用銀行(長銀)の管理下に入って身動きがとれなくなっていた、1993年のことだった。 「そうだなあ、とりあえず預金するのかなあ」。何とも気のきかない答えをすると、「ほらね、お金を使うことは才能なんですよ」と言って高橋は笑った。  85年のバブルの初期から、わずか4年で1兆5000億円にまで借り入れを膨らませ、国内外で不動産やホテルやゴルフ場を買いまくった男は、90年のバブル崩壊後にEIEがまたたくまに銀行管理会社となると、95年には背任で逮捕投獄される。  10年というわずかな期間に、これほど激しい栄枯盛衰を演じた経営者はバブルの登場人物の中でも例がない。高橋治則は長銀とともに歩み、長銀とともに破は綻たんした。  あれから30年を過ぎて再び考える。高橋はほんとうにお金の使い方がうまかったのだろうか。お金を使う「才能」があったのだろうか。  高橋の行動は、同じバブルの時代の三国志を生きた、秀和の小林茂や麻布建物グループの渡辺喜太郞とも、また光進グループの小谷光浩とも違っている。彼らはみな、貧しさのなかで生まれ育ち、反骨の精神を持って社会と向き合う〝まじめさ〟があった。激しい成り上がりの精神があった。恐喝、相場操縦で逮捕・投獄された小谷光浩でさえ、私は犯罪にいたる過程と心象風景を正確に理解できると思っている。  同じ時期、いまやソフトバンクを世界的な企業に育て上げた孫正義も、実家のパチンコ屋をベースにフランチャイズを目もく論ろみ、水面下で小谷光浩に資金を融通してもらうような時期もあった。しかし、のちのインターネット事業への投資につながる情報産業への夢と、資本への渇かつ望ぼうは揺るぎなかった。  高橋治則はそのどれとも違う。高橋治則の軌跡を追っても、何が彼の夢だったのか、30年近い年月を経ても浮かんでこない。資本主義の舞台で暴れまくった成り上がり者の持つエネルギーも感じられない。努力して成り上がることをあざ笑うかのような生き方だった。  あえて名付けるならば、「慶応ボーイ」の人生だった。慶応ボーイの世界を軽やかに生きながら、同時に薄っぺらな「アメリカンドリーム」を実現しようとしていた。 パーティー券詐さ欺ぎ事件と政治家の夢  高橋はその人生の前半期に、二つの挫ざ折せつを経験する。  彼の人生観を大きく左右し、その未来を暗示したのが、日ひ吉よしの慶応高校進学直後に起きる「パーティー券詐欺事件」だった。当時、慶応高校では、学生が主催する、女子学生を集めたパーティーが頻繁に催されていた。慶応ブランドがあればパーティーチケットはあっという間にさばけた。そして、その売れ行きにかまけて、会場が確保されていないパーティー券が売りさばかれることもあった。当人たちは「さしたることはない」と思っていた。学校側はそれを詐欺行為とみなした。高橋も首謀者の一人とみなされ、退学処分となる。  当時の都会型の「遊び人」にとって、最高の進学コースと言えば、小学校にあたる幼稚舎から慶応に進み、中等部か普通部で中学を終え、高校は日吉で過ごす。高校で1年程度留年することもかまわない。そして当時慶応大学の中ではもっともやさしかった法学部政治学科に進み、勉学などに拘束されず大学生活を送ることだった。  なんとも人を食った人生観に思えるかもしれない。しかし、まぎれもなくそうした「有閑階級」が日本のなかに存在していた。それが「形なりのよい」慶応ボーイの一つのあり方だった。高橋はまさにそのコースを歩んでいた。しかし高校1年で、それを学校当局に拒絶された。理不尽な学校の権力によって自分の人生がゆがめられた。高橋の心象風景にはそう映った。  高橋は世田谷学園高校に転校し、雌伏する。周囲は彼の価値観とは違う、普通の学生たちだった。事件の3年後に慶応大学法学部に一般受験で入る。しかし、失われた3年間は返ってはこない。こうしたコースを歩んだことで、幼稚舎あがりの典型的な「慶応ボーイ」とは違う、ある種の虚無的な精神が高橋に宿ったように思う。  彼の今ひとつの転機は岳父、岩沢靖との出会いだった。西華産業株をめぐる仕手戦で、資産のすべてを失い、生涯逃亡生活を送った岩沢である。  73年、帝国ホテルで高橋治則と岩沢靖の次女滋の結婚披露宴が盛大に開かれた。高橋は大学を卒業し、日本航空の社員になっていた。結婚式はさながら衆議院選挙の出陣式のようだったという。かつて政治家を夢見ていた岩沢靖は、自身の夢を高橋に託すつもりだった。しかし、当時は自民党田中派の絶頂期だった。福ふく田だ(赳たけ夫お)色の強い政商、岩沢靖とその娘むすめ婿むこである高橋治則に出る幕はなかった。これが高橋の二つ目の挫折であった。  岩沢は70年代後半から、株式市場の仕手戦に深くのめり込んでいく。札幌トヨペット、金星自動車、北海道テレビ放送のオーナーであり、北海道では知名度の高い岩沢も、全国的に見れば地方の一事業家だった。そして政治への足がかりをつかめなかった岩沢は、80年になると資産の大半を西華産業株につぎこみ、みずから〝上場企業〟の会長に就任する。高橋はこの過程で、岳父岩沢の代わりに名義を出し、大株主として登場する。  81年1月、加藤暠率いる誠備グループの破綻とともに西華産業株も暴落し、岩沢の資金は底をつく。岩沢がグループ各社から引き出していた負債の総額は329億円に達した。札幌トヨペットは会社更生法を申請する。  政治家への転身をあきらめた後、日本航空でのサラリーマン生活に見切りをつけ、家業の電子周辺機器商社EIEの副社長をしていた高橋は、同時に岩沢靖の側近として関係者と付き合い、その興隆と破滅に至るいきさつを、じっくりと見ていた。  バブルの寵ちょう児じとなった80年代の後半、高橋は岩沢靖との関係を問われることを極度に嫌がった。岩沢は札幌トヨペットなどグループ企業の破綻後は、世間に一切姿をみせず、逃亡し続けて亡なくなった。トヨタ自動車の販売店の社長たちに多大な迷惑をかけて、表に出ることができなくなったとも言われていた。  高橋は岩沢との関係について、私には「義父である岩沢の隠し財産がEIEの原資だったように言われることがあるが、誤りだ」と言っていた。 「西華産業の仕手戦の時に、義父に名義を貸したことから、いろいろ言われているが、私はむしろ後始末の手助けをした立場だ」と激しく反論した。  私は、高橋が岩沢の資金力を当てにして、バブルの時代に乗り出して行ったとは思わない。しかし、「後始末の手助けをした」高橋が、岩沢王国の崩壊の中で様々なことを学び、心に刻んだことは間違いない。  高橋が学んだ最大のポイントは、「金融力の多た寡かが経営のスケールを規定する」という事実だった。北海道の天皇とまで呼ばれた岩沢王国のあまりにもあっけない崩壊は、いわばグループ内に銀行を持たない企業グループの悲劇であり、有力なメインバンクを持たない企業の末路だと、高橋には思われた。  トヨタ系の北海道の有力ディーラーであっても、岩沢の救済にトヨタ自動車は積極的には関与しなかった。また、政界の黒幕のようにいわれ、政界・官界にカネをまき散らしていても、岩沢の凋ちょう落らくにはなんの歯止めもかからなかった。 長銀の「金融力」と結合  高橋治則は、電子周辺機器商社であるEIEの経営に飽き足らなくなり、不動産投資、ゴルフ場投資、株式投資に積極的に乗り出す。80年代のはじめに3億円で買ったビルが、あっという間に10倍に跳ね上がる。ときはバブル前夜である。経営危機に陥っていた協和信用組合(のちの東京協和信用組合)の資金集めを手伝っていたことが縁で、85年5月25日に東京協和信用組合の理事長に就任する。これは高橋のバブル史を考える上で象徴的な出来事だった。  時をおかず、日本長期信用銀行は中小企業に的を絞った身の丈に合わない積極戦略を展開する。また都市銀行の世界では、富士銀行と住友銀行の間で、FS戦争と呼ばれる激しい首位争いが始まっていた。  本業ではさしたる実績のなかったEIEだが、不動産投資の競争では負けはしなかった。借金をするつもりならば、いくらでも借りることが出来る時代が到来していた。バブル市場での快進撃が始まる。高橋治則の決断力と、当時まだトリプルAの格付けだった長銀が結びついた時、圧倒的なパワーが生まれた。  高橋は慶応人脈をフルに活用した。高橋の周りにはいつでも、「慶応ボーイ」があふれていた。EIE社長の河かわ西にし宏ひろ和かずは治則よりも5歳年上の慶応ボーイだった。兄の治はる之ゆきは電通に入り、最も慶応ボーイらしい人生を歩んでいた。治則は退学事件でも兄に頼り、バブル時代の人脈についても、治之に多くの人を紹介してもらったと周囲は言う。そして、巨額融資のきっかけをつくった日本長期信用銀行の担当者も、慶応の出身だった。  多層的な人脈づくりは日本IBM出身の窪くぼ田た邦くに夫おがつとめた。彼自身は慶応出身ではなかったが、日本IBMの社長だった椎しい名な武たけ雄おの懇親会「しいのみ会」の幹事役として、政界・官界・財界の人脈に通じていた。高橋を椎名に代わる新しいパトロンとして接近し、慶応人脈と政界・官界の開拓をになった。しいのみ会の流れで、数々の慶応人脈が高橋にすり寄り、官僚達がたかった。  慶応人脈が生きたかどうかは定かではない。しかし、このグループが新しいビジネスを繫つなぎ、高橋治則によるバブルの増殖の一翼となった。  その中の一人に三洋証券社長の土つち屋や陽よう一いちがいた。土屋陽一は、戦後の取引所再開の立役者である土屋陽よう三ざぶ郎ろうの長男であり、慶応大学を卒業後、野村証券に入り、家業の三洋証券を継いだ。典型的な慶応ボーイだった。彼はバブルの時代を一いっ気き呵か成せいに攻め上り、88年5月に、ウォーターフロントの最前線ともいえる江東区塩浜に、床面積3700平方メートルという壮大なトレーディングルームを作る。  そのトレーディングルームを舞台に、高橋治則と土屋陽一は株式投資、不動産投資、海外投資などさまざまな儲もうけ話をした。  都会の匂においをまき散らし、苦労のかけらもないバブルの寵児たちの宴うたげだった。岳父岩沢靖に学びながら、それとはまったく異なる都会型のバブルを生み出した。  86年以降の超金融緩和の時代は、高橋が目論んだ展開を可能にする環境を生み出した。日本長期信用銀行という金融力との完全癒着をテコに、投資対象を海外にまで広げた時、高橋の拡大路線をチェックできる人間は誰もいなかった。  86年には、電子周辺機器商社の「EIE」を店頭公開し、「日本携帯電話」を設立。32億円を投じて、「ハイアット・リージェンシー・サイパン」を購入する。  87年には、「ヒルトン・クレスト・ゴルフクラブ」を着工、「ロイヤルメドウゴルフクラブ」をオープンする。そして130億円を投じてオーストラリアに「リージェント・シドニー」を取得、私立大学「ボンド大学」に22億円を投じる。  88年には、ジャパンラインの子会社だった日新汽船(シーコム)を傘さん下かに収め、イタリアのホテル「リージェント」を100億円で購入する。またオーストラリアでは、527億円を投じて「サンクチュアリー・コーブ」を、120億円を投じて「ハイアット・リージェンシー・パース」を買収する。香港の「リージェント・インターナショナル・ホテルズ社」の株式を56億円で取得する。  89年には、香港の「ボンドセンター」の一棟を380億円で購入し、「明野エコトピア」を設立する。またホノルルのゴルフ場開発のために「ロイヤル・オアフ・リゾート」を設立し、ハワイのホテル「ハイアット・タヒチ」に154億円を投じる。「リージェント・フィジー」を44億円で、「リージェント・バンコク」の株式の40%を36億円で取得した。  90年には、ベトナムにフローティングホテルをオープンし、フランスのパリにビル買収のための会社を設立し300億円を借り入れる。「ヒルクレストゴルフクラブ」をオープンし、美み野の里りゴルフクラブを着工する。  ひとつひとつを取り上げて議論することさえ意味がないと感じられるような、あまりにも異常な戦線の拡大だった。  この時期、EIEの決算説明に訪れた高橋と河西を、大株主の富国生命社長の古ふる屋や哲てつ男おはこう叱しっ責せきした。「君たちのやっていることは事業じゃない。ゴルフ場やリゾートをやっちゃいけないとは言わない。だけど、一つのゴルフ場を完成させたら利益が出るようになるまで、まず経営をすることが大切ではないだろうか。それが軌道に乗ってから、次のゴルフ場を手がけるべきだろう。君たちは身の程をわきまえずに買い物をしているだけじゃないか」。  帝人事件の被告でもあった小こ林ばやし中あたるの流れを汲む富国生命の慧けい眼がんだった。しかし高橋は聞く耳を持たなかった。  資金繰り難が表面化するのは90年11月。そして91年1月に長銀から派遣された田た中なか重しげ彦ひこが2月にEIEの副社長に就任し、4月に長銀主導で主力5行によるリストラ計画が発表される。  そして2年後の93年7月に長銀がEIEへの支援をストップしてからは、高橋治則は長銀のくびきをはなれ、独自の道を模索しようと考える。これ以降、EIEと長銀はそれぞれの破滅への道を歩むことになる。  94年から雪崩なだれを打ってEIEの経営は悪化し、95年に東京協和信組は安全信組とともに公的資金が投入され、高橋治則は業務上横領の罪で逮捕される。みずからが理事長を務める信組で資金を集め、それをEIEの延命に投入していたからである。  そして、土屋の率いる三洋証券も97年、山一証券が倒産したのと同じ年に倒産する。 福沢諭吉を理解できなかった慶応ボーイたち  手元に93年当時、高橋治則がバブルの時代を総括したインタビューのメモがある。  バブルの時代とは何だったのかという質問には、「やはり異常な時代だった。私はそのことを十分に認識していた。それでもなぜ走ったかと言われれば、やはり年齢のことを言わざるを得ない。本格的に事業の拡大に踏み込んだのは80年代半ば、41歳の若さだった。歴史に残る波乱の時代に、一体どこまで走り抜けるかということを考えていた。もちろん当時は、勝てる戦だと考えていた」 「もし、今(93年)になって同じことを繰り返すかと言われればやらない。しかし私の挑戦が失敗だったとは思っていない」  自分のやってきたことに後悔はないかという質問には「もう少し早く撤退できたらと思うことはある。89年後半からおかしなことになると感じていた。しかし、海外の業務の展開は、いざ撤退を決めても、動き出すには半年かかるなど、現実の対応が後手後手に回った」と語っていた。  不思議なことに、みずからが投資し、賭かけた物語に対する「夢と挫折」の総括がまるでない。あるのは、お金を巡る「決断と判断」の物語だけである。  日本長期信用銀行が93年当時、EIEからとりあえず撤退したのは、大蔵省と連携した上で、同社を無税償却する戦略があったからだ、と言われる。EIEをつぶして長銀だけが生き残る戦略を描いていたともいえる。  その構想が崩れた時、日本長期信用銀行はEIE同様に滅びの道を歩み始めた。  98年10月23日、長銀は一時国有化を申請する。表面化した長銀の債務超過額は3兆6000億円、その全額は公的資金でまかなわれた。  小渕総理の懇請で、日銀の理事から日本長期信用銀行の最後の頭取の役割を担になったのが、安あん斎ざい隆たかし(現セブン銀行会長)である。安斎は、長銀の増ます澤ざわ高たか雄お、堀ほり江え鉄てつ彌や、大野木克信を含めた元取締役15人に総額63億円の損害賠償を求めて東京地裁に訴訟を起こすという、つらい役回りを果たした。その安斎は明言する。「長銀にとってはEIEへの深入りが経営を悪化させた最大のミスだった」。  しかし、わずか3億円の不動産投資が、1兆5000億円の投資に拡大するまでに、10年の歳月は必要としなかったのである。「土地神話」と「銀行の有担保主義」が生み出した、壮大な信用創造の物語だった。  高橋治則の周りにはたくさんの慶応ボーイたちが群がっていた。彼らは、仕事を持ち込み、高橋の借金を増やし、彼にたかった。親交のある政治家が、高橋の保有するマンションを、家賃も払わず自由に使い、親族が高橋治則の保有する高級車やプライベートジェットを自由に乗り回した。マスコミが明らかにした大蔵官僚への便宜供与など、氷山の一角だった。 「およそ世の中に何が怖いと言っても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない」「一口に言えば私は借金のことについて大の臆おく病びょう者もので、少しも勇気がない」  慶応義塾の始祖、福沢諭吉は『福ふく翁おう自伝』の中でこう語っている。しかし高橋の周りにたかった慶応ボーイの中に、この金言を生かす人は誰一人としていなかった。  岩沢靖と高橋治則──岳父との親子二代。80年代のわずか10年で、前ぜん代だい未み聞もんの壮大な増殖と崩壊のドラマを演じたのである。 3 「買い占め屋」が暴あばいたエリートのいかがわしさ  バブルの最終局面に登場した不動産会社の代表格をAIDS(エイズ)と呼んで忌いみ嫌う、悪あしき雰囲気がエスタブリッシュメント社会にあった。  渡辺喜太郎の麻布土地グループ(A)、高橋治則のイ・アイ・イ・グループ(I)、佐藤行雄の第一不動産グループ(D)、そして小林茂の秀和(S)である。いずれも、バブルの時代の1980年代後半に、不動産市場や株式市場を舞台に、「世間を騒がせる」ニュースを巻き起こした企業であるが、日本の金融界や同業者のなかには彼らを「成り上がり者」と見て、それを公言はしないものの、さりげなく無視する空気があった。  しかし、さまざまな局面で、彼らが日本社会の変質をリードしたことは間違いない。このなかでバブル期最大のトリックスターは誰かと問われれば、文句なしに小林茂である。  トリックスターという言葉は「詐さ欺ぎ師。ペテン師。手品師」など、あまり好意的な言葉としては使われない。しかし言葉の本来の意味は「神話や民話に登場し、人間に知恵や道具をもたらす一方、社会の秩序をかき乱すいたずら者」である。そして「道化などとともに、文化を活性化させたり、社会関係を再確認させたりする役割を果たす」(大辞林)。  小林茂は言葉の本来の意味でのトリックスターだった。同時に、企業家精神に富んだ経営者でもあった。  60年代に、日本に初めて「コンパ」と呼ばれるスナックバー形式の酒場を作ったのは小林茂である。コンパとはカウンターの中に若い女性が立ち、洋酒をボトル単位で低価格で売り、さまざまな酒を取り揃そろえた酒場である。60年代後半から70年代にかけて一世を風ふう靡びしたスタイルだった。居酒屋の生活になじんだ団塊の世代にとっては生活革命であり、「トリスバー」に変わる新しい酒場モデルだった。  また、62年の区分所有法施行を受けて、64年3月に竣しゅ工んこうした秀和青山レジデンスを皮切りに、67年2月の秀和外がい苑えんレジデンスなど、日本の分譲マンションブームの先駆けをつくった。そして、欧風の瓦かわら屋根や独特のバルコニーを売り物に、マンションシリーズを定着させた。  いわゆる建て売りマンション時代の始まりだった。  小林自身が語った言葉で、いくつか思い出すことがある。「10階建てが建てられるところには、天井を低くしてでも11階建てるんだ」「必ず建けん蔽ぺい率りつにゆとりがあるところに道をつけておくんです。そうすればいずれ高い建物が建てられる」  言葉だけを受け止めれば、なんとえげつない経営者だと思うことだろう。現実に小林茂と接した人間のほとんどは、いまでもそう思っている。  しかし「都心の便利な場所に、サラリーマンに手の届く価格でマンションを供給する」という露悪家の小林がみずからは絶対に語らなかった前提を加えると、評価はがらりと変わってくる。  50年近い時が経過し、小林もすでに鬼籍に入った今、秀和のマンションシリーズはどう評価されているのか。天井こそ低いものの、便利な場所に立地したシリーズは、ヴィンテージマンションとして人気が高い。同じ価格帯の建て売りのマンションで、これだけ存在感を維持し続けているシリーズというのは他に例がない、と不動産業者は言う。  秀和は新興の不動産会社にもかかわらず、会社設立当初から賃貸ビルにも力を注ぎ、収益の源泉を確保し続けた。  82年に東京都港区芝に秀和が建設した、地上14階建ての大型オフィスビル「芝パークビル」は、全長140メートル、奥行き50メートルという大きさで、「軍艦ビル」と呼ばれ、ダイエーの本社や三菱重工が入り、浜松町─芝の評価を高めるビルとなった。まさに芝のランドマークであった。  こうした経営センスが、150億円近いキャッシュフローを維持しつづけ、バブルのピークには1兆円を大きく上回る資金を借り入れる原動力となった。またバブル崩壊後も、麻布建物、EIE、第一不動産、さらには小谷光浩の光進グループなどが、すべて法的に経営破綻したのに対し、秀和は一度たりとも金利棚上げをせず、徹頭徹尾、自助努力での生き残りを図った。「金利棚上げには陥らない」ということに、一種異様なほどの執念を燃やしたのは、第1次オイルショック後の不況で、銀行管理会社として苦労した時期のトラウマだった。  2005年、依然として、巨額の負債を抱えながらも16棟のオフィスビルを所有していた秀和は、モルガン・スタンレー証券に1400億円で買収される。小林の無念は推し量るべくもない。しかし十分な経済価値を維持した健常な企業として、秀和はその歴史に幕を引いたのである。  世間からは「買い占め屋」と言われ続けたが、小林は当時日本には存在しなかった投資銀行の機能を、いち早くみずから体現した存在でもあった。それは「会社は株主のものであるという前提に立って、株主として合理的に株価を算定し、みずからリスクを取って株式に投資する。また求める会社があれば、M&Aに協力する金融仲介機能を果たす」という米国流の投資銀行本来の役割である。  その小林茂の秀和が、最終的に米国の投資銀行のシンボルともいえるモルガン・スタンレー証券に買われたというのは象徴的なことである。  秀和が不動産業界だけでなく、株式市場でも台風の目になったのは、バブルの最終局面の88年から90年にかけてのことである。小林茂は、相次いで流通関連株を大量に取得し、一躍、流通業界の再編の「目」になる。百貨店では伊勢丹と松坂屋、そして中堅スーパーでは忠実屋、いなげや、長崎屋、ライフストア。いずれも筆頭株主に近い保有株数で、保有株の時価総額は3000億円にも達した。  ダイエーの中内㓛、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊、セゾングループの堤つつみ清せい二じ、ジャスコグループの岡おか田だ卓たく也やなど流通業界のトップが、一様に秀和の保有する百貨店株、スーパー株の帰き趨すうに関心を示す。小林は公言した。「私の持っている株は、必ず流通業界の効率化と再編につなげる」。  しかし、時価3000億円にのぼる流通株を買い集め、「中堅スーパーの大合同によって1兆円規模のスーパーを設立する」という小林茂の構想が、そのまま急展開して実現することはなかった。 忠実屋、いなげやの市場を無視した防衛策  これらの中堅スーパーのなかで、忠実屋、いなげやの2社が動いた。忠実屋は33・3%、いなげやは21・4%を、秀和が保有しており、他のグループ会社との再編を提案されていた。このままでは、再編に応じるにしても、ダイエーなど大手スーパーに株式が渡るにしても、現状よりもさらに厳しい環境にさらされかねない。  2社は秀和からの提案を拒絶する一方で、企業買収に抵抗するために、専門家に依頼して対応策を検討した。そして89年7月8日、資本業務提携を発表する。秀和の買い占めから身を守るための〝演技〟であることは誰の眼にも明らかだった。その2日後の7月10日には、両社が株式を持ち合う第三者割当増資の決議をした。  その内容は、忠実屋からいなげやに発行する株式は、発行株式数2200万株で、発行価格は1120円と、当時の時価の5分の1という安値だった。この結果、いなげやは忠実屋株の19・55%を保有することになり、秀和の忠実屋持ち株は26・8%に低下する。  一方、いなげやから忠実屋に発行される株式は、発行株式数1240万株で、発行価格は1580円。当時の市場価格4150円に対して3分の1近い安値だった。これが実現すれば、忠実屋はいなげやの株式の19・55%を保有することになり、秀和の持ち株比率は17・24%に低下することになる。  発行される忠実屋の株式総額は246億円強、いなげやの株式総額は196億円弱。ところが実際に払い込まれるのは、いなげやから忠実屋への50億円強だけである。当該企業にはほとんど資金負担のかからない防衛策だった。  いくら資本提携や支援などのために相対で条件を決めて株式を発行できる第三者割当増資だからとはいえ、市場で取引される株価を無視した、このようなファイナンスが上場企業として許されるのだろうか。  特に問題になったのは、この第三者割当増資の具体案に関与したのが、業界トップの証券会社である野村証券の直系の子会社である野村企業情報だったことである。商法上許された増資とはいえ、株主権を毀き損そんする第三者割当増資については、証券界は、かねて反対の立場だった。三光汽船の第三者割当増資に対しても厳しい批判をしていたのは、ほかならぬ野村証券だった。  野村企業情報は、野村証券が作ったM&Aブティックであり、ワッサースタイン・ペレラという米国の超有力ブティックとの合弁会社だった。日本にオープンなM&Aを定着することをその設立の趣旨に掲げていた。  野村企業情報と組んだのは、森綜そう合ごう法律事務所、プライスウォーターハウスという、トップクラスの法律事務所と会計事務所だった。日本のM&Aの未来をリードするはずのエリートたちが作った忠実屋、いなげやの防衛策は、市場原理を無視した、なんとも不可解な第三者割当増資だったのである。  秀和は即刻、東京地裁に対して、仮処分を申請する。小林側の弁護士は河かわ合い弘ひろ之ゆきだった。法的な争点は2点である。忠実屋・いなげやの第三者割当増資が、特定の株主に利することになる「有利発行」になるか。2番目は新株発行が「不公正な発行」に当たるかどうか。  7月25日、東京地裁の仮処分は明快だった。「有利発行」「不公正発行」の2点を全面的に認めた上で、M&A、とりわけ敵対的なM&Aに関する歴史的な判断に踏み込んだ。今後この種の案件には、「市場価格は株価を判断する原点であるという原則に則のっとって対処する」というスタンスを、裁判所が認めた瞬間だった。それ以降、現在にいたるまで裁判所のこのスタンスが揺らいだことはない。  過去にも第三者割当増資の割当価格や、株主割当の正否をめぐって、裁判にもつれこむケースはあった。しかし、裁判所は明確な判断を避けることが多かった。それは裁判に持ち込む当事者が、買い占め屋と呼ばれる日本社会の異端児が多かったことによる。経済案件に対する裁判官の知識不足もあった。  現実の株価と本来的な企業価値の乖かい離りは、いつの時代も株式市場の最大のテーマである。M&Aを決めるのも、のれん代を評価するのも、さらには市場がバブルかどうかを判断するのも、この視点を抜きにして答えは出ない。その意味で、秀和の申し立てに対する仮処分は、日本の経済社会における裁判所の判断の転機だった。M&A時代の幕開けを告げる号砲でもあった。  ただし、これは裁判所が劇的な判断を下したというわけではない。株式市場という市場のインフラ機能や、株式会社の本来の機能について、ごくごく常識的な判断を初めて明確に下したにすぎなかった。  むしろ裁判所の判断に新しさがあったとすれば、それは異常な第三者割当増資を考えた野村企業情報、森綜合法律事務所、プライスウォーターハウスというプロたちの非常識に対して警告を発したことである。  忠実屋、いなげやの主幹事証券でもある野村証券は、すぐに事態を把握した。それまで接触を断っていた小林茂と野村証券の田淵義よし久ひさ社長(会長の田淵節也と縁えん戚せき関係はない。ともに田淵姓だったため、会長の節也が大タブチ、社長の義久は小タブチと称された)が、都内のホテルで緊急会談する。そして「野村企業情報の行動と判断について野村証券は一切関係していない」ことを明言し、「今後機会があれば小林氏の持ち株についての仲介もしたい」と申し出た。  野村証券のなかでも賢明な何人かは、この問題の本質に気が付いていた。企業が本来持っている価値に比べて、市場の株式価値が著しく低かったり、高かったりするときにその乖離を正そうとするのがM&Aの本質であるということである。そしてその乖離をいかに評価するかが、プロとしての腕のみせどころでもあるということだ。  その前提にあるのは、株価がいかに異常ともいえる水準を付けていても、市場の当事者は時価をベースとした評価を、みずからの手でねじ曲げてはいけないということだった。時価に比べて5分の1という発行価格を、市場関係者が率先して認めてしまえば、株式市場全体がバブルによって異常な水準にあることを、公式に認めることになる。それは、株価全体の暴落を合理的なものとして認めることにつながる。  しかし、小林茂の裁判での勝利は、彼の経済人としての勝利を意味するわけではなかった。90年のバブル崩壊によって、小林茂の保有する株も暴落に転じる。さながら、野村企業情報がつけた第三者割当の価格が正しかったというような、相場全体の水準訂正だった。  忠実屋は時を経てダイエーの傘さん下かにおさまり、いなげやは長い変転の末にイオングループが経営権を取得する。小林が描いたのとは別の形で中堅スーパーの再編は進む。しかし秀和の集めた株式と小林の行動力がなければ、この再編はあり得なかった。  伊勢丹、松坂屋など大手百貨店も、当時の経営者の思惑を超えて、さまざまなグループ再編を経験した。小林が松坂屋の株式取得のときにしきりに提案した松坂屋銀座店の建て替えも、四半世紀をへた今、ようやく実現しようとしている。  小林茂の真骨頂は、嫌われ者であることを認識しつつ、日本が「買い占め屋」の時代から「M&A」の時代へ移行する橋渡しを演じてみせたことにある。コモンセンス(常識)が欠落していたのは小林茂ではなく、忠実屋、いなげやのアドバイザーをつとめた専門家集団だった。  忠実屋といなげやの第三者割当増資の価格が、市場価格に対して5分の1であっても合理性があるという主張は、説得力を持っているように思われた。しかし一方でバブル相場を肯定しながら、裏に回ってそれを否定する二枚舌は、マーケット関係者には許されないことだった。  東京地裁の判断に明記された「市場価格は株価を判断する原点である」という言葉こそ、この仮処分の「きも」である。「その株価が正しい」と言っているのではない。「その株価から考えなければ、市場は成り立たない」と言っているのだ。  現実の株式市場の株価は、89年12月の大納会の3万8915円87銭から、2003年4月28日の7607円88銭まで、13年半でちょうど5分の1近くにまで下落した。そして日本経済は、「失われた20年」といわれる長い低迷とデフレの時期を迎えることになる。  忠実屋、いなげやの第三者割当増資の発行価格は、日本の証券市場の改革をリードするといわれたエリートたちの傲ごう慢まんさを示した。日本システムの改革が進まないのは、日本のエスタブリッシュメントの側に問題があることの証明でもあった。  そのエスタブリッシュメントに体を張って挑み、歴史の証言者としての彼らのいかがわしさとバブルの実態をマーケットを通じて証明してみせたのが、トリックスター小林茂の最大の功績である。  小林茂は2011年4月、静かに亡なくなったという。このニュースを取り上げるマスメディアはなかった。 4 トヨタピケンズが示した時代の転機  1989年3月、米国の投資家T・ブーン・ピケンズがトヨタ系の部品メーカー、小糸製作所の株式を3240万株、発行済み株式数の20・2%を取得して、筆頭株主として登場した。ピケンズはみずからの役員登用や増配を要求し、さらには、企業グループ内での取引を優先させる日本の「系列取引」を排他的な商慣行として批判し、積極的なメディア戦略を展開した。バブルのピークである89年から、ピケンズがみずから撤退を宣言した91年4月までの2年間、日本ではM&A時代の幕開けともいえるような報道合戦が繰り広げられた。  ピケンズはテキサスの石油会社メサ・ペトロリアムの会長だが、世間ではアービトラージャーとしての顔で知られていた。アービトラージャーとはサヤ取りを専門とする投資家のことで、日本流にいえば仕手筋といってもいい。ピケンズは80年代前半から名うてのアービトラージャーとしてウォール街で活躍した。  84年3月、そのピケンズが歴史的な舞台に登場したのが、セブンシスターズ(戦後の石油メジャー7社)の一つであったガルフ石油の買収劇である。ピケンズがM&A合戦の口火を切り、最終的にはカリフォルニア・スタンダード(現シェブロン)による134億ドルという史上最大の企業買収として幕を閉じる。ピケンズはこれによって5億ドル以上の売買益を得たといわれる。  一躍アービトラージャー達の大スターになったピケンズだが、経営者からは蛇だ蝎かつのごとく嫌われた。そのピケンズが、89年になって突然、トヨタ系の部品メーカーの筆頭株主として登場したのである。  弁護士やロビイストを積極的に活用し、ワシントンで系列取引批判を続け、公聴会まで開かせるピケンズの政治力は侮あなどれないものだった。すでに米国では、日本的な系列取引に対する批判が高まっている時だった。一方で、ピケンズは名義人にすぎず、実質的な株主はバブルで急成長した不動産会社や外車販売会社を経営する麻布建物グループの渡辺喜太郞であることは、衆目の一致するところだった。  外務省の米国担当である北米一課長は、のちに外務省を辞めて評論家となる岡おか本もと行ゆき夫おだった。かれは「たとえ米国ではグリーンメーラーと呼ばれるような人たちの行動であっても、法律的には正当な株主であることに違いはない。また米国による系列取引批判の流れを考えれば、けっして表面的な対応で済ませてはならない」と、ピケンズ・小糸製作所問題をきわめてまっとうなM&A案件として処理した。グリーンメーラーとは、株式を買い集めて肩代わりを求める買い占め屋のことである。  結果として、この問題はM&A時代を迎える日本と、その関係者にとって格好の実験場となった。 豊とよ田だ英えい二じの決断  買い占め側も防衛側も、日本を代表する実力派の法律事務所を使い、それぞれにノウハウを蓄積した。さらに外務省、通産省、大蔵省といった霞が関の官庁にとっても、本格的なM&A時代にむけて、こうした分野の人材育成を考える節目となった。  実質的な買い占めの黒幕であり、ピーク時には小糸株を5000万株所有し、2000億円の巨費を投じた渡辺喜太郎は、戦後の焼け跡闇やみ市いちから成り上がり、外国車の中古車売買で財をなし、その外国車専用の駐車場やショールームの不動産投資でさらに財をなすという、バブルの申し子のような男だった。 「お天てん道と様さまはちゃんと見ていて下さる」「麻布建物の財産はね、竈かまどの灰まで俺のものだ」──ユニークな言動で知られるバブルの寵ちょう児じは、一方でその人ひと懐なつっこさによって、日産自動車のトップで経済同友会の代表幹事をつとめた石いし原はら俊たかしや、三井信託銀行の社長で流通業界や不動産業界に幅広い人脈を持つ中なか島じま健けんといった財界人に可か愛わいがられた。  そのかれを窮地に追い詰め、ピケンズというカードを引かせた男は、意外な所にいた。トヨタ自動車のドン、豊田英二会長である。  実は渡辺喜太郎は、光進の小谷光浩から騙だまされるような形で、小糸製作所株1800万株を高値で押しつけられていた。まだ資金的にはゆとりがあったものの、経営権を取得するつもりなど毛頭なかった。株式を買い増しつつ、肩代わりのタイミングをうかがっていた。  かれはトヨタグループに株式の肩代わりをさせることを目もく論ろみ、自民党の重鎮で通産大臣の経験もある安あ倍べ晋しん太た郎ろうに働きかける。安倍は棚たな橋はし祐ゆう治じ産業政策局長に相談し、肩代わりの具体案をつくり、トヨタグループの幹部にぶつける。  トヨタグループとしても、次期総理の有力候補である安倍と通産省の大物幹部の要請とあれば、粗略にはあつかえない。株式を肩代わりするという方向で、トヨタ経営陣の総意が固まりかけた。日本のこれまでの買い占め・肩代わりと何も変わらない、有力者の仲介によって水面下で決着する条件が整った。  しかしこの日本的な決着に、鶴つるの一声で「ノー」をつきつけ、徹底抗戦を決めたのが、豊田英二会長だったのである。小糸問題を担当していた奥おく田だ碩ひろし専務(のちの社長)の報告を受けた上でのことだった。かりに豊田英二の決断がなければ、まだバブル崩壊の起こる前の89年に小糸製作所買い占め問題は終結し、渡辺喜太郎には巨額の売却益が転がり込んでいたはずである。  ことの真相を確認できたのは、日経ビジネス誌の95年8月7・14日号のインタビュー「豊田英二かく語りき」の取材の時だった。 「小糸株に関して結局、肩代わりを断ったというのは、その通りです。あの時はごく普通の判断をしたんだ。(トヨタが小糸株を買い取るという筋書きに)安倍さんは、大分こだわっておったけれどね」 「安倍さんはちょっと深入りし過ぎたよ。あんなの深入りしちゃいかんわ、政治家は。しかも、将来(総理)を考えている政治家はね。そこら辺のどさ回りならともかく、安倍さんのような立場の人が、あんなに深入りしちゃいけない」  よほど腹に据えかねていたのだろう。安倍晋太郎は結局、総理の夢を果たせずに終わった。  豊田英二は小糸問題から遡さかのぼること数年前に処理した買い占め・肩代わり事件を心から反省していた。トヨタ自動車の創業会社でもある豊田自動織機の株式の肩代わりである。  日本土地グループの日本現代企業という新興の不動産会社に買い占められた豊田自動織機は、その歴史から、トヨタ自動車をはじめとしたトヨタグループの株式や不動産を、安い簿価で大量に保有していた。含み益も膨大だった。水面下での交渉の末に、株式を密ひそかに肩代わりした。新聞ではほとんど伝えられなかったニュースだ。  グループ会社に対する買い占めや、敵対的なM&Aがあった時には、徹底してオープンな対応をするしかないというのが、豊田自動織機問題を契機に豊田英二のなかに刻み込まれた教訓だった。だからこそ、小糸のケースで「ごく普通の判断をしたんだ」と言えたのである。  豊田英二の拒否によって追い詰められた渡辺喜太郎が選んだのが、米国のグリーンメーラーであるピケンズを引きずり出すことだった。渡辺喜太郎にとっては、きわめてコストがかかるリスクの高い賭けだった。  なぜなら、ピケンズは一銭の資金負担もせずに大株主を演じ、系列取引批判や日本市場の閉鎖性について問題提起するが、その間の資金コストや株価の下落リスクは、すべて渡辺喜太郎サイドが負うことになるからだ。特金・ファントラで利回り保証をしていた証券会社や信託銀行の立場と一緒だった。あらゆるリスクは渡辺喜太郎がかぶることになったのである。右肩上がりの株高、土地高が続くという前提でのリスク負担だった。  しかし現実には、ピケンズが登場してから退場するまでの2年間で、日経平均は瞬間的には5割近く値下がりし、小糸製作所の株価は半値近くに値下がりした。渡辺は自著の中で、小糸株で1000億円の損失を被こうむったことを認めている。破は綻たんまでにはまだ時間がかかったが、小糸製作所株式の買い占めは、麻布建物グループの倒産の決定的な引き金となった。 ピケンズの問題提起  ピケンズによる小糸製作所買い占め問題は、バブルの最終局面を飾った三国志の主人公たちが演じる物語の一幕だった。しかし、これが注目に値するのは、その後に日本企業や日本の投資家が直面し、解決していくべき問題をことごとく先取りしていたからである。安定株主やコーポレートガバナンス、日本的な商取引の問題、そしてグローバリゼーションの中で変質する日本の株式市場の問題である。  トヨタ自動車は、小糸製作所の安定株主比率62%強を守り抜くことで、ピケンズによる経営権奪取の可能性を防ぎきった。ピケンズに買い占められる前の内訳は、トヨタ自動車19%、日産自動車10%、松下電器産業10%、そして銀行が10%強、生保が同じく10%強だった。  トヨタ自動車と日産自動車は最大のライバルメーカーである。その二つが大株主として並んでいるところが、日本的な安定株主の奇妙なところだった。だからこそ渡辺喜太郎も、トヨタ自動車への保有株売却を目論んだのである。条件さえ整えば、トヨタ自動車もさらなる株式の買い増しをしてダントツの筆頭株主の座を望むだろうし、応分の価格で買い取ると読んだのである。  また日本生命や第一生命など、生保の安定株主の問題は微妙である。89年に渡辺喜太郎グループが買い占めた高値5470円の時に、なぜ生保は株式を売却しなかったのか。機関投資家の行動原理が問われた。日本生命や第一生命の株主としての立場は、トヨタ自動車や日産自動車と同じではありえない。誰が買い手であっても、高値のときに的確に売却をしなければ、投資家としての行動原理の誠実さ(プルーデントマンルール)にそむくことになってしまう。機関投資家としての株主権の行使の原則は、背後にいる投資家や契約者の利害に基づかなければならない。  しかし当時は、機関投資家にまで安定株主の論理がまかり通っていた。トヨタ自動車の要請を聞くのが生保にとっての当たり前の行動原理だった。  小糸製作所は、ほんとうにトヨタ自動車のグループ会社なのだろうか。グループならば、なぜ持分法の適用会社となる20%以上の保有を避けるようにして、19%の持ち株比率にとどめているのだろうか。  ピケンズはメディアや株主総会において、系列取引の論理や安定株主の論理に対して、違和感と嫌けん悪お感かんをあらわにした。その主張の数々は、当時の日本では奇異に思えることもあった。しかし、四半世紀の歳月を経てみると、株式の持ち合い関係はピケンズの言うとおりに推移して、解消が進んでいる。  トヨタの持ち株比率はちょうど20%で持分法の適用会社になり、ライバルの日産自動車の持ち株は、カルロス・ゴーン体制下で売却され、完全に姿を消した。また横並びだった銀行や生保の持ち株比率も、いまではまちまちとなっている。トヨタ自動車が当時必死で守りぬいた62%強の安定株主の構図は変わったのである。しかし、M&Aが一段と活発化している現代において、安定株主を維持する必要性はいささかも減じていない。 どちらが勝者だったのか  あれから四半世紀、それぞれの当事者は、どのような帰き趨すうをたどったのだろうか。  トヨタ自動車は3兆円の利益を目指す世界最強の自動車会社として世界戦略を展開すると同時に、日本における雇用確保でも重要な役割を担っている。また小糸製作所はトヨタ自動車のグループ色を強めつつ、日産自動車とも有力な取引先としてつながり続けている。株価も渡辺喜太郎が取得した時点の一株5000円という水準を前後している。ピケンズと渡辺喜太郎が見通した小糸製作所の未来図は、長期的には正しかったのである。  またピケンズが指摘した系列取引は、長期安定的な取引関係として、形を変えながら世界の企業のなかで見直されている。トヨタが築き上げた「トヨタ生産方式」(カンバン方式)は、世界の製造業の生産システムのなかでも、有力なモデルとして定着しつつある。  トヨタは単にグリーンメーラーであるピケンズを排除しただけではない。当時、様々な形で日本に侵食しつつあったアメリカ型の資本主義に対して、制度や戦いの土俵は共有しながらも、独自のコーポレートガバナンスがあり得ることを証明したのである。  T・ブーン・ピケンズは、あいかわらずテキサス州で石油やシェールガスの掘削にかかわっているというニュースが聞こえてくる。しかし、世界的な投資家として成功したという話は聞かない。  渡辺喜太郞率いる麻布グループは、株式に続く土地の暴落のなかで、ハワイをはじめとするさまざまな場所で展開していたホテル、ゴルフ場などの権利すべてを失い倒産した。その後、麻布の名を冠した会社を立ち上げて細々と活動している。  豊田英二とピケンズ・渡辺喜太郎の違いはなんだったのだろう。ピケンズと渡辺喜太郎は、M&Aのルールのなかで、完膚なきまでに叩たたきつぶされた。それは買い占め屋の時代が終わり、M&Aの時代が始まる節目の象徴的な事件だった。そして米国においても、T・ブーン・ピケンズらのアービトラージャーではなく、ウォーレン・バフェットのような長期投資家が評価される時代がやってくる。  経営支配の戦いでは、トヨタグループが完勝した。しかし経営ルールの面では、ピケンズのさまざまな主張は、金融自由化とグローバリゼーションを背景に実現していった。  もちろん豊田英二は、そんなことは百も承知だった。政治献金で買い占め屋と繫つながった政治家・官僚が、株式買い占めの肩代わりを仲介する時代ではない。それならば弁護士、M&A会社、会計事務所に経費をたっぷり使った防衛策を講じる方がよほどましだと、経営者としての直感が働いた。当時専務だった奥田碩は小糸問題の担当として買収防衛策の指揮をとり、95年に社長に就任した。  そして25年後、豊田家直系の豊田章あき男お社長は、2015年7月に債券とも株式ともつかないAA株と呼ばれる奇妙な株式の発行による増資で5000億円の資金を集めた。この株式は、5年の償還期限の間、株主は名義を明らかにしたうえで、安定株主となる。その代わり5年間の平均で1・5%という発行時の長期金利をはるかに上回る「配当」を約束する。トヨタの配当であれば、一般的な社債の金利よりも高く、かつ確実に得られるだろうという安心感と信頼感を利用した、株式とも債券とも転換社債とも異なる新しい試みである。社長の豊田章男はこの増資について、「顔の見える長期の安定的な株主」を育てる試みであると説明した。  ピケンズを引っ張り出し、見事に殲せん滅めつしたのは、豊田英二の決断だった。ピケンズ・渡辺喜太郞という「買い占め屋」を表舞台に上げ、「M&Aのプロフェッショナル」として遇したうえで、トヨタの正しさを証明した。バブルの崩壊も、トヨタに味方した。  豊田英二の怒りは、ピケンズ・渡辺喜太郞に向けられていたのではなかった。彼らを差別し軽けい蔑べつしたようにふるまいながら、裏にまわるとそれを利用する政治家、官僚、銀行、そして証券会社に対して向けられていた。  それは同時に、バブルの時代に醸成されていた、金融業やサービス業の故ゆえなき優位に対する異議申し立てであり、製造業の経営者としての意地でもあった。 「バブルの時代はね、モノを作っておるやつは間が抜けておる、というような言い方が幅を利きかせておった」「バブルの絶頂期みたいにみんなでワーワーお祭り騒ぎをやっておる時には、ふわふわ浮かんでおるのが当たり前だ、という錯覚を起こした人がたくさんおったでしょう」「結局、小糸事件にしてもそうだけれども、バブルの時代というのは、やっぱりおかしな時代でしたよ」  豊田英二は13年、100歳の天寿を全うする。ぶれない人生だった。 5 住友銀行の大罪はイトマン事件か小谷問題か 「私の心のふるさとは住友銀行だ」  四半世紀の歳月を経て考えても、このひと言ほどバブルの時代の空気と、銀行の行動原理の変質を表現した言葉はなかった。  1989年6月22日、バブル相場の真まっ只ただ中なか、日本経済新聞は一面企画「検証株式取引 問われる持ち合い構造 仕手戦支える大銀行」という記事を掲載した。  言葉の主は小谷光浩。当時、彼は株式市場におけるもっともセンセーショナルかつエネルギッシュな相場師と言われていた。86年ごろから謎なぞの仕手グループとして兜町で話題を集め始めたコーリングループ(のちの光進)の総そう帥すいで、国際航業、蛇の目ミシン工業、藤田観光、協栄産業、東洋酸素など数多くの上場企業の大株主となり、その一挙手一投足が市場の関心を集めていた。  88年に入ると、国際航業の過半数を上回る株式を押さえ、買い占めた小谷光浩に対して権利行使を制限する東京地方裁判所の仮処分決定が下ったり、創業者の桝ます山やま健けん三ぞう会長と長男の桝山明あきらによる親子の確執などを経たうえで、この記事が出る前年の88年12月の臨時株主総会で、経営権を取得していた。  蛇の目ミシン工業は、小谷の大型の仕手戦の初うい陣じんであり、86年頃には発行済み株式数の30%近い株式を押さえ、メインバンクの埼玉銀行にとっても無視できない存在となっていた。すでに触れたように、蛇の目ミシン工業については、83年にミネベアの高橋高見社長が、株式公開買い付け(TOB)による敵対的な企業買収まであと一歩のところにこぎつけたことがある。しかしその時は、埼玉銀行と蛇の目ミシン工業の影のオーナーといわれる国際興業(右の国際航業とは別)の小佐野賢治の政治力で最後の最後で頓とん挫ざする。大蔵大臣の竹下登が反対に回ったという声が関係者の間でささやかれていたことも、すでにミネベアの項で述べた通りである。  その蛇の目ミシンの買い占めに再度挑戦したのが小谷である。小谷に対して、小佐野はみずから接触して、「いくらでも買ってみろ」と挑発したという。買い向かう小谷に対して、徹頭徹尾、持ち株を売り浴びせた。若造に小佐野の怖さを思い知らせてやろうという態度だった。  小谷はその売りを受け切った。小佐野は86年10月27日に没する。蛇の目株をめぐる小谷との争いが、小佐野の死期を早めたという見方さえあった。  小谷については、国際航業を舞台に初の敵対的な買収を成功させた男という評価が一般的である。しかしプロの世界では、田中角栄の刎ふん頸けいの友といわれ、戦後システムの最後の黒幕といわれた小佐野賢治の神話を壊した男という勲章が、彼の凄すご味みの原点だった。  しかし80年代のバブル紳士のなかでも、小谷はとりわけ謎が多く、出自も資金力も不明だった。彼が経営する不動産会社は、80年代の前半までは、街の不動産屋に毛の生えた程度の会社だった。それが、80年代の半ばから株式投資を媒介に様々な場所に顔を出しつつ、数々の仕手戦を同時多発的に手掛け、一躍時代の寵ちょう児じとなる。 仕手戦を支えた銀行  私が最初に小谷光浩にインタビューをしたのは89年の6月上旬だった。西新宿の甲州街道沿いの貸しビルの4階に、株式会社光進の東京事務所の社長室はあった。第一部上場企業である国際航業の経営権を支配下におさめ、名門蛇の目ミシンを小佐野賢治から奪い取り、埼玉銀行の経営の中ちゅう枢すうにまで影響力を持ち、世間を騒がせ続ける仕手グループの総大将。そうしたイメージとはほど遠い、地味で小さな事務所の応接セットだった。  小谷は饒じょう舌ぜつに語りかけてきた。 「わたしはいうなれば企業の成人病を治す医者みたいなものですよ」。小谷のやり方は、他のバブル紳士たちと違う。買い占めに関わると、会社やメインバンクに入り込み、彼らの内部事情を調べ、企業の立場、銀行の立場、それも現場とトップの双方の話に直接関わっていく。  また「政治家は近づいてくることはあっても利用したことはない」と言いながら、中曽根康弘、安倍晋太郎、宮みや沢ざわ喜き一いちなど親しい政治家の名前をこともなげにあげる。中曽根康弘については、のちに山王経済研究所の事務局を担当し、中曽根の金庫番ともいわれた太おお田た英えい子こに国際航業株の相対取引で1億2000万円の株式売買益を与えて取り入ったことが明らかになる。  経済人のなかでは三井不動産会長の江え戸ど英ひで雄おが、ある時期まで「小谷の才気煥かん発ぱつなところが好きだ」と広言するほどの仲だった。東京ディズニーランドの土地取得の際の地上げを通じて江戸の懐ふところに入り込んだと解説する関係者もいた。また、三井信託銀行社長の中島健と融資について直接談判する仲だったことは銀行関係者の常識だった。埼玉銀行頭取の増ます野の武たけ夫おも、小佐野賢治亡なきあとは、小谷と付かず離れずの関係だった。不動産会社・地産グループの総帥で、のちに脱税で逮捕、懲役刑となる竹たけ井い博ひろ友ともの紹介だったといわれる。もちろん、竹井と小谷は、欲と相場がからんだ深い関係だった。  さらに小谷は、「住友銀行の堀ほっ田た庄しょう三ぞうも野村証券の田淵節也もよく知っている」と嘯うそぶいていた。どこまでが真実で、どこまでがはったりか、線引きのむずかしい取材先だった。  光進はその華々しい活動にもかかわらず、あるいはその華々しい活動のゆえに、金融不安説が絶えなかった。それは資金の出所が明らかでないことと、表裏一体でもあった。  仕手戦の持続性を考える上で金融力は大切ですね、と聞くと「日本長期信用銀行や三井信託銀行、その系列のノンバンクも皆応援してくれていますよ」と答える。  そして唐突に「私の商売の原点であり、心のふるさとは住友銀行ですよ」と言い切った。  当時「検証株式取引」のチームの関心、のみならず私自身の最大の関心は、銀行がこのバブルの増殖にどの程度積極的に関わっているかだった。当時、小谷光浩だけでなく、これまで見てきた秀和の小林茂、麻布建物の渡辺喜太郞、EIEの高橋治則など、バブルの時代のスター達が株式市場にも手を出し、株主権を主張してM&Aに乗り出していた。小谷光浩たち「成り上がり」の資金力の裏側には、有力銀行が関わっているのではないか。なかでも、近年の経営改革によって80年代後半に富士銀行を抜いて、名実ともにナンバーワン銀行の座を獲得した住友銀行と、バブルの寵児である小谷光浩のあいだに明確なつながりがあれば、バブルの時代の本質を暴あばき出す象徴的なニュースになる。  もちろん、小谷のコメントだけで記事にするわけにはいかない。すでに周辺取材で、住友銀行が光進との取引を、新規事業を積極的に開拓する新宿の新都心支店で始めているという情報が入っていた。営業の最高責任者である西にし貞てい三さぶ郎ろう副頭取と小谷光浩との密接な関係も確認していた。  担当のS記者の取材に対し、西副頭取は「光進グループへの融資は、住友銀行本体の融資として114億円ある」と答えた。  西は、当時の住友の絶対的な存在だった磯いそ田だ一いち郎ろう会長の直系で、営業全般を統括する立場だった。苦学して私学の夜間学部を卒業した西は住友銀行の営業のシンボルであり、いち早く伊藤萬(イトマン)に転出した河かわ村むら良よし彦ひこ常務とともに、いわゆるノンキャリアの星だった。磯田一郎の経営とは、この二人に象徴されるように、ノンキャリア組を巧みに使いこなしながら、積極的な営業攻勢に打って出ることだった。 「住友銀行の直接融資が数十億円単位以上あれば、小谷のコメントを記事にしよう」。S記者とは取材前から打ち合わせていた。そして89年6月22日の記事として結実する。  小谷光浩は、その1年後の90年7月に、藤田観光株の株価操縦で証取法違反容疑で逮捕され、91年2月には、蛇の目ミシン工業に対する296億円の恐喝容疑で再逮捕される。小谷が近い将来、犯罪者になることを十分に予測したうえで、小谷の顔写真入りで「住友は心のふるさとだ」という記事を掲載した。  掲載後の反応は予想を上回るものだった。しかし、住友銀行との間には、沈黙だけが残った。記事を否定するわけでもない、かといって肯定するわけでもない。編集局にも、私たち取材グループにも、住友銀行からの問い合わせは皆無である。  当時の銀行は、住友銀行と小谷光浩の関係と同じような問題に直面していた。日本長期信用銀行とEIEの高橋治則、三井信託銀行と麻布建物の渡辺喜太郞、そして後述(第4章1)する日本興業銀行と尾上縫。それぞれが、あとから振り返れば異常としか言えない取引にのめり込んでいた。その上、直接融資がまずいと思える案件には、住専などのノンバンクや、規制の甘い信用金庫・信用組合や農協系金融機関などを関与させて取引を成立させていた。  本来、日本の金融システムをリードする都市銀行や長期信用銀行には、預貯金や金融債の発行で国民から集めた資金を、企業の設備投資や運転資金など、日本経済の健全な発展や成長に寄与する分野に回す責任がある。それが免許会社である銀行の条件である。  また日本の大企業の側から見れば、大銀行とりわけメインバンクは、経営を支援してくれる身内だった。株式の持ち合いを通じて安定株主として株式を長期保有するケースも多い。それが、戦後の日本システムにおける大手の銀行の役回りだった。  その銀行が、株式を買い集めM&Aを主張する小谷光浩のような経営者に、銀行本体で直接100億円以上の融資をして、関連のノンバンクを通じて数千億円単位の資金が流れていることを黙認していたのである。  取引先の企業からみれば、銀行の変節であり、裏切りだった。それが分かっているからこそ、住友銀行は小谷光浩の「住友は心のふるさとだ」という呼びかけに、沈黙をもって答えたのである。  このまま右肩上がりの土地高・株高が続いていれば、住友銀行にとっては、沈黙は金だったろう。水面下のやりくりで、融資関係はいずれ別の取引に置き換えられ、小谷との取引関係も別の姿に生まれ変わっていたかもしれない。  90年以降の株価の暴落は、小谷のシナリオをすべて壊したばかりでなく、住友銀行をも直撃した。 小谷問題とイトマン問題  90年7月の小谷逮捕によって、仕手戦の資金作りで小谷に協力していた山やま下した彰あき則のり青葉台支店長が逮捕されるという事件が起こる。  この時期、住友銀行は磯田一郎会長時代の最後の時期で、その負の遺産ともいえるイトマン事件と格闘していた。実質的に住友銀行の商社部門であった伊藤萬(イトマン)は、オイルショック後の長期の業績低迷にあえいでおり、そこに再建のために社長として送り込まれたのが、磯田の腹心である住友銀行常務の河村良彦だった。その河村は90年2月、協和綜合開発研究所の社長、伊い藤とう寿す永え光みつを企画監理本部長としてイトマンに入社させ、6月には常務に据える。  伊藤寿永光は、みずから手掛けてきた地上げ案件など様々な問題案件を、イトマンに持ち込んで処理しようとした。さらに不動産だけでなく、数々の美術品を買い込んでいく。この取引には、関西の裏社会の顔役である許きょ永えい中ちゅうなどもからみ、総額700億円近くにのぼった。  明らかに、イトマン社長の河村良彦の乱心だった。そして、どういう私的な経緯があったかは別にして、磯田一郎の乱心でもあった。  70年代後半に、当時十大商社の一つであった安あ宅たか産業の経営破綻をメインバンクとして取り仕切り、英断で乗り切った磯田一郎が、今度は、イトマンで住友銀行を危うくする。たつみ外そと夫お頭取以下、住友銀行関係者は危機感をつのらせる。  そうしたなか、10月5日に山下彰則青葉台支店長が「小谷光浩に対する出資法違反」の容疑で逮捕される。小谷光浩の仕手戦と、住友銀行の関係がはからずも表面化する。そして、翌々日の10月7日、磯田一郎会長が退任会見をする。磯田は、小谷光浩に対する違法融資をした青葉台支店長の犯罪を退任理由とした。  退任の理由にするということは、小谷問題を重大な事件と認めたということである。しかし同時に、イトマン問題を退任の理由にはしないということでもあった。  10月16日、磯田会長は正式に辞任し、取締役相談役になる。また西貞三郎副頭取も辞任する。この間に、住友銀行の経営陣は磯田と対たい峙じし、実質的な営業体制の一新を勝ち取る。西の退任はその象徴であり、イトマンの河村の退任の流れも決まった。  この時、常務として恩人の磯田の首をとり、イトマンの不良債権処理にすべてを賭かけたのが西にし川かわ善よし文ふみだった。その西川は97年に58歳で頭取に就任し8年間務める。さらに2006年1月に民営化された日本郵政の社長に就任し09年の退任まで務め上げた。  西川は、11年に『ザ・ラストバンカー』と題する回顧録を出版する。バブルの時代を生き抜いた西川の回顧録は、バブルの時代を知るうえでの必読書であり、生々しい事実関係にあふれている。  その西川がほとんど触れなかったのが、小谷光浩と住友銀行の関係である。  西川が小谷問題にふれたのは、300ページを超す回顧録の中のたった13行。それも行員山下彰則の犯罪としてである。全文を掲載しておこう。 「このとき(イトマン問題で磯田一郎の解任に奔走しているさなか)、まったく思いがけない事件が起きる。住友銀行の山下彰則元青葉台支店長が、住友銀行の融資で株式の仕手戦を繰り返し、蛇の目ミシン工業恐喝事件によって証取法違反で起訴されていた仕手グループ『光進』の小谷光浩氏に対する出資法違反容疑で10月5日に逮捕されてしまうのだ。山下元支店長のやり口は『浮き貸し』と呼ばれるものの一種で、支店長の地位を利用して支店の大口顧客に小谷氏に対する融資を勧誘するものだ。逮捕容疑の対象になったのは、1988年の春から秋にかけて行われた融資だった。『融資斡あっ旋せん』『紹介融資』とも言うが、何と呼ぼうと支店にある預金を仮払金などの勘定にして無断で貸す行為であるから、銀行では完全に御ご法はっ度とである。住友銀行でこんな事例は、私の知る限りにおいて他にはない。後に懲役1年6月、執行猶ゆう予よ3年の刑が確定している」  見事な割り切り方である。小谷問題は、極めて異常な前ぜん代だい未み聞もんのバンカーが引き起こした違法行為だと言っている。イトマン事件に比べれば小さな問題に過ぎないと言っているのだ。  それは違うと思う。山下彰則支店長は、80年代の中盤以降、住友銀行が選んだ強力な不動産志向の経営路線にどっぷりとひたって育った数多くの住友銀行マンの一人であり、そして数多くの日本のバンカーと同じ感性を持った銀行マンだった。それが、いつの間にやら犯罪に手を染めていたのである。 「住友は心のふるさとだ」という言葉そのままに、小谷光浩と住友銀行の取引の軌跡はバブルの時代を通じて広がる。イトマン事件は、住友銀行の経営幹部がみずからの責任でアングラ社会にのめりこんだ人災だった。しかし、小谷と住友銀行の取引拡大は、まさに住友の営業戦略とともにあったのである。  西貞三郎副頭取の指示で、小谷光浩の取り扱いは大阪の小支店から、山下のいる東京の新宿新都心支店に移り、新機軸の数々の不動産プロジェクトを拡大する。不動産融資の斡旋、ノンバンクの仲介、ゴルフ場の会員権の販売の支援などをへて、小谷が仕手戦にのめり込む時期と軌を一にして、山下は小谷の株式投資への支店顧客の紹介に走る。それは住友銀行が80年代後半にかけて力を注ぎ、他の銀行もそれを真ま似ねた「住友方式」と呼ばれる脱法すれすれの不動産取引への参入モデル、その延長線上にある犯罪でもあった。  少なくとも、山下の意識ではそうだった。 機構改革が生んだ「住友方式」  住友銀行が営業体制を劇的に変えたのは、経営コンサルタントのマッキンゼーを入れて、79年に「総本部制」という大胆な機構改革を取り入れてからである。営業推進と審査機能を一体化して、スピード経営をめざす改革は、頭取に就任した磯田一郎が取り入れた施策だった。旧安宅産業の経営難をきっかけに1000億円の債権放棄をして、住友銀行は収益力の回復が至上命令になっていた。当時、マッキンゼーという外部のアドバイザーを使って、実力者堀田庄三(前頭取)の体制を変革した、無血革命という声もあがった。結果として、大おお前まえ研けん一いちというコンサルタントを売り出し、日本に経営コンサルタントを根付かせるプロジェクトにもなった。  総本部制の営業本部が目をつけたのが、不動産業務だった。不動産の購入代金を貸し出すのが本来業務だが、斡旋手数料も住友銀行にとっては魅力ある取引だった。しかし、不動産の斡旋は信託銀行だけに認められていた。住友は規制の盲点をつく仕組みを考える。手数料の代わりに、協力預金という低金利の預金をさせることで、不動産斡旋手数料に見合う利益を、金利の鞘さやを抜くことで得ることが出来る。ノンバンクへの斡旋でも同じような手法が駆使された。  住友方式と呼ばれたこの手法が、住友銀行の猛追におびえた富士銀行など他の都市銀行や、日本興業銀行にまで波及した。そして住友銀行の内部では、山下彰則に象徴されるように、住友方式をつかって取引を広げることでは足りずに、その延長線上に株式投資や美術品、ゴルフ会員権など様々な分野に手を広げる行員が増える。  山下の著書のなかに、「限界利益を追求しろ」という支店長の話が出てくる。おそらく、経済学における限界利益の定義も知らない支店長が、独自の造語として振り回した「限界利益」という言葉は、要するに「何でもやれ」ということだった。  山下なりの限界利益の追求が、小谷光浩の仕手戦への融資斡旋だった。  バブルの終息期にイトマン処理で西川善文のみせた決断力は驚嘆すべきものがある。しかし西川の回顧録には、不思議とバブルを膨らませた銀行の責任、とりわけその先兵と言われた住友銀行の営業姿勢について反省の声が聞かれない。限界利益を追求した結果、89年3月期、住友銀行は都市銀行の収益トップの座に返り咲く。平和相互銀行の不良債権により転落してからわずか2年後だった。  それは磯田一郎のはじめた構造改革=成長路線の10年目の果実であり、銀行が加速したバブル経済の落とし子でもあった。  西川善文は頭取就任後の2001年には三井グループのさくら銀行との合併を実現して、三井住友銀行の初代頭取に就任する。  バブルを生み出した壮大な罪は、住友銀行の中では磯田一郎と西貞三郎副頭取が一身に背負う形になっている。しかし、それは公正な評価だろうか。  最終局面で伊藤寿永光に引きずり込まれ、イトマンをアングラ社会のおもちゃにされた河村良彦に救いの手を差し伸べるつもりはない。しかし、小谷光浩を御しきれなかった西貞三郎、サラリーマンの出世欲に駆られながら、ついには犯罪にまで踏み込んだ山下彰則は、果たしてバンカーの常識もわからない異常な人間たちだったのだろうか。  70年代、安宅産業の破綻処理に走り回り、「1000億円をドブに捨てた」と公言し、「向こう傷は問わない」と再起を期した磯田一郎。そして磯田が実行した79年の機構改革。そのなかで不動産融資に特化して、審査と営業を一体化させて、一いっ気き呵か成せいに営業拡大を志向した住友銀行は、矛盾をまき散らした。しかし皮肉でもなんでもなく、こうした機構改革と営業姿勢が、同時にバブル崩壊後の生き残りを可能にする収益基盤を作ったのである。  西貞三郎と西川善文は、磯田一郎の住友銀行が生み出した二つの遺伝子である。  御み堂どう筋すじと本町通の交差点にあったイトマンビルは、すでに積水ハウスの手に渡り、2010年に本町ガーデンシティ&セントレジスホテル大阪として27階建てのビルに生まれ変わり、大阪の新しい顔となっている。イトマン事件に関わった関係者にとっては、時代が一回転したことを感じさせられるビルでもある。  そして、光進の小谷光浩は何のモニュメントも残さなかったが「私を捕まえると、日本は大変なことになりますよ。日本のシステムが壊れるのだから」という言葉を残した。歴史は小谷の言う通りに転がった。そして小谷光浩のことを語る人は今や誰もいない。 6 「株を凍らせた男」が予見した戦後日本の総決算 「海の色が変わった」──野村証券会長の田淵節也からこの言葉を聞いたのは1989年11月頃のことだった。日経平均は年末にかけて急きゅう騰とうし、4万円台をうかがうような勢いだった。  田淵節也は、47年(昭和22年)からバブルの時代まで40年以上、日本の証券会社の最前線で活躍してきた。戦後の取引所再開から、「昭和40年不況(証券不況)」、オイルショック、そしてバブルの時代。数々の波乱を経験した、マーケット(市場)をもっともよく知る男だった。  野村証券は88年3月期に、経常利益5000億円を稼ぎ出し、利益日本一の金融機関となっていた。その経常利益は、製造業を含めても日本一だった。野村証券は市場に対するその巨大な影響力や情報発信力によって、バブル崩壊後には88~89年のバブル増殖を作り出した主犯ではないか、との批判も受けることになる。 「海の色が変わった」という田淵の言葉は、もちろん「熱狂相場の転機」を予測する言葉だった。しかしそれだけではない。バブルの崩壊が「戦後日本システムの総決算」になることをも意味していた。  私が記事として田淵の言葉を引用したのは、90年の2月23日の朝刊だった。株価は89年末の大納会に高値3万8957円をつけたあと、年明けから下がり始める。それでもまだ強気論が圧倒的で、一時的な調整とみる向きが多かった。「トリプルメリット崩壊」と題した日経一面の記事は、その後も一直線で下げ続ける株式相場を予見する記事となった。当時「円高、金融緩和、原油安」が株高をもたらすトリプルメリットと言われていた。その年の10月には日経平均は瞬間的に2万円割れと、89年大納会の高値3万8957円からみると、9カ月で半値前後まで下げた。  記事が掲載された当日、太おお田た宏ひろし読売新聞論説委員(のちに読売新聞副社長)から「桐きり一葉だね」という電話があった。私自身が考えていたことを、見事に言い当てられた。太田も相場の転機に思いを致していた。  53年2月、立花証券の創設者の石いし井い久ひさしは、独眼流というペンネームで「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」と書き、3月5日のスターリンの死以降の「スターリン暴落」を予言した。独眼流のその記事は、株式市場では相場予測の白はく眉びとして長く語り継がれていた。  新聞紙面で相場の下げを予測する、弱気記事を書くことの緊張感は半はん端ぱではない。証券会社や投資家は、ほとんどが強気待望論である。また、不確実な未来を予測することは、原理的に不可能である。それでも、経済の基礎的な条件であるファンダメンタルと、株価との間に著しい乖かい離りがある時、バブルはいつかはじける。その事実をしっかりと伝えることも、経済記者の仕事である。  そんな葛かっ藤とうの時期に、証券界のドンともいわれた田淵節也が、バブルの時代の行き過ぎをいち早く見通し、日本株について弱気の根拠を明確にしていたことは、弱気論を自分の中で積み上げていく重要な指針だった。  88年から89年にかけての株式相場の上昇を経て、バブルの崩壊が間近に迫っていることを、田淵はひしひしと感じていた。しかし、下げると分かっている時でも、下げる時期までは分からない。相場とはそういうものである。89年の大納会の時も、野村証券の株式担当の専務Kは「株式市場は20幕のドラマのまだ第4幕だ」と脳天気な、というよりは営業本位の強気をぶっていた。  このあたりの事情を、田淵は亡くなる1年前の2007年11月に掲載された日経「私の履歴書」のなかで吐露している。 「日経平均が2万円、3万円を超えて上昇する間、僕は弱気だった。『野村証券の会長が弱気では商売に差し障さわる』と社内で問題になったこともある。株式市場には『掉とう尾びの一振』という言葉がある。『最後に一段高があり儲もうける機会を逃す手はない』という意見が大勢を占めると、僕も(弱気を貫く)自信がなかった」。  89年当時、田淵は私に自じ嘲ちょう気味にこうつぶやいていた。「阿あ波わ踊りのようなものだな。踊る阿あ呆ほうに見る阿呆。踊っても踊らなくても、その後の暴落局面での投資家の損失は変わらない。だから証券会社は踊らにゃ損々となるのだよ」。バブル相場の一面の真実だった。  証券会社の会長としての経営の責任と、40年以上兜町で生きてきた人間としての「暴落」の予感という二律背反の葛藤のなかで、田淵は「海の色が変わった」というコメントを歴史の記憶にとどめておきたいと考えた。2月23日の記事の掲載に際しても、「海の色が変わった」というコメントに実名を入れることは拒否したが、「証券界首脳」とすることで了解した。私が署名入りの記事で「証券界首脳」と書けば、関係者のほとんどが「田淵節也」だと思うことは、田淵自身、十分に承知していた。  その時に議論した内容が残っている。相場はどこまで下げるんですか、という質問に「日経平均で2万4000円かな。いや2万円を切るかもしれないな」。あっさりと答えた。2万4000円でも89年の高値からみれば40%の下げであり、88~89年の相場上昇をすべて帳消しにする水準だった。それだけの下げを予測する人は、銀行・証券会社関係の首脳レベルでは誰もいなかった。 全銀行あげての土地バブル 「海の色が変わった」という表現は、彼が生まれた1923年、関東大震災の直前に起きた実話だという。房総半島に避暑に来ていた金持ちの家族が、海水の色がいつもと違うのに気づく。不吉な前兆と思って東京に戻り、大事なものを安全なところに避難させる。そして震災による経済的な損失をまぬがれたということだった。  田淵のこの時期の弱気には、田淵の親友で、相場の師匠でもある立花証券会長の石井久の影響が間違いなくあった。石井はスターリン暴落を当てたあとも、立花証券を舞台に「売り」からも「買い」からも入る相場師経営者として縦横無尽に活躍した。独眼流というペンネームこそ使わなくなったものの、日経でコラムも書いていた。  石井久が師と仰いだのは、戦前の昭和恐きょう慌こうや金解禁をはじめとした経済の難局に、東洋経済新報の記者からスタートして、経済ジャーナリズムで見事な論陣を張り、戦後も市し井せいの経済学者として的確な評論活動を続けていた高たか橋はし亀かめ吉きちだった。  その石井は、89年末までに個人資産のうちの日本株をすべて処分して、長期国債に乗り換えた。当時、質問を受けると「私個人の資産運用について語っては、当たっても失敗してもお客さんから恨まれるだけです」と一切答えなかった。しかし90年の株式暴落以降、石井は、評論活動を控えて、相場観のたぐいを語ることがほとんどなくなる。  田淵節也と石井久、そしてソニーの盛田昭夫の3人は、定期的に会合を持つ友人だった。ソニーの会社本体のファイナンスなどは野村証券が引き受け、盛田昭夫の個人資産の運用は石井久が担当するという関係にあった。石井自身の全財産を入れかえるポートフォリオの選択が、この会合で話題にならなかったはずはない。  しかし、田淵の真骨頂は、88~89年にかけてのバブル相場の大衆的な熱狂相場(ユーフォリア)とその転機を当てたことにあるのではない。戦後の日本経済において金融システムが果たしてきた役割、とくに銀行と証券会社が果たしてきた役割と限界を、誰よりも早く、正確に認識していたことにある。  銀行が変わらない、変われない原点に、有担保主義への執着がある。担保としての土地を絶対視して、土地本位制ともいえる仕組みをつくり、土地が値下がりすることはないという「土地神話」をつくりあげた。そして80年代以降、銀行は土地担保の信用創造に一段とのめり込む。所有する土地価格の含み益を反映して高騰した株価を使って、企業や銀行が資金調達を競う。そして「財テク」と称して、調達した資金の運用を活発に繰り広げた。それが日本のバブルだった。その責任の多くは銀行にあるが、証券会社もそれに加担した責任を負わなくてはならない。  87年のブラックマンデーの当日、田淵はニューヨークにいた。米国の株価暴落は転機だと感じた。あの時、日本の株式相場が米国と同様に調整していれば、バブル崩壊の傷は浅かったとも考えていた。  84年の日米円ドル委員会をきっかけに、米国によって日本の閉鎖的な経済制度、とりわけ金融が問題にされるなかで、野村証券は外資の参入を黒船として、金融自由化の圧力をテコに日本の金融改革を進めたいと考えていた。野村証券とモルガン銀行との間で合弁の信託会社を設立する構想も、こうした流れの一つだった。  しかし大蔵省の護送船団行政の壁は、厚く、高かった。  当時、彼は「今回のバブル相場は大きいぞ。その反動も大きいぞ。なにしろ、全銀行をあげての土地バブルだからな。ツケも銀行に回ってくる」と言っていた。  田淵の見立てでは、「昭和40年不況」は、日本の高度成長の過程の一里塚に過ぎなかった。所しょ詮せん、山一証券という〝証券会社〟の経営危機に過ぎなかったからだ。ただ、田淵は昭和40年不況の過程に、日本興業銀行という銀行の転機も見ていた。興銀をはじめとする長信銀が発行する割引金融債が、証券会社の資金調達に節度なく使われていた。「運用預かり」と呼ばれるその資金調達に、山一危機の本質があった。山一証券の危機は、興銀の危機でもあった。  だが、80年代後半の土地高・株高のバブルは、昭和40年不況のような局所的な証券市場の危機ではない。全金融機関を巻き込んだ土地バブルである。当然、その危機は全〝銀行〟におよぶ。  四半世紀たって、その後の風景を眺めてみれば、田淵の見立てはことごとく的中している。いまや都銀は、三菱UFJ銀行、三井住友銀行、みずほ銀行のメガバンク三行とりそなグループに集約され、長信銀三行は姿を消した。  銀行による土地本位制が、土地と株の壮大なバブルを生み出した。しかし、株式の持ち合いを通じて銀行のメインバンク制を補完し、バブルの増殖を加速した責任は、証券会社にもある。 田淵が果たした「矛盾した役割」  50年代後半、岸きし信のぶ介すけ首相の時代にできた金融システムを、田淵は「資本主義計画経済」と呼んでいた。「大蔵省が一番えらく、その代理人が日本興業銀行で、興銀の指図でお金を配分する都市銀行が床の間を背負って上座に座り、下座で頭を低くして控える証券会社がお金を融通していただくという世界だ」。そして、田淵が生涯をかけて挑んだのが、この固定した金融秩序の打破だった。間接金融の銀行システムを、直接金融の証券会社に置き換える夢だった。  野村証券をはじめとする日本の証券界は、60年代後半から70年代にかけて、時価発行増資と転換社債を日本に定着させた。  田淵は68年に、国内初の時価発行である日本楽器製造(現ヤマハ)の増資に当事者として関与し、時価発行を日本に定着させる。また初の時価転換社債は66年に日本通運で野村証券が先陣を切る。そして、ソニーやホンダ、イトーヨーカ堂など新興の成長企業が、時価発行増資を通じて割安な資金を調達し、成長の原動力とした。時価発行は間違いなく、企業金融の流れを変えた。  時価発行増資や内外の転換社債発行は、日本の間接金融主導の位階秩序を蹴け散ちらし、直接金融中心の世界に移行するための魔法の杖つえだった。  諸もろ刃はの剣となったのは、株式の持ち合いだった。発端は昭和40年不況。田淵は当時副社長だった北きた裏うら喜き一いち郎ろう(のちに社長)に「君が野村証券の不況対応策を担当しろ」と言われ、新設の統括部長に就任する。  野村の保有株の処分を徹底してやり、売れない株の評価を下げた。在庫圧縮と低価法による不良債権の処理だった。  株価暴落時だからこそ可能だったこの時の対応が、その後の日本経済の回復期に、他の証券会社との体力格差となって、野村が証券界のトップに躍り出る条件をつくった。同時に田淵自身も、野村証券の内部で、そして証券界においても、一躍次世代のリーダーとして認められるようになる。この過程で田淵が取り組んだのが、株式持ち合いの活用である。  取引先の企業が、決算対策のために保有株の売却を希望したり、証券会社自身の保有株を処分しようとしても、市場で売却しようとすれば株価は下がるばかりである。当然、引き受けてくれる株主を探すことになる。そして、仲のいい会社同士が株を持ち合い、自社株と同じように抱えることになった。戦後、財閥解体であふれ出した株式を処理したやり方でもあった。日本では、商法によって自社株保有が原則として認められない時代だった。株式持ち合いは、自社株取得なき日本の企業における、変則的な発行株式の需給調整でもあった。  外資による対内直接投資を認める資本自由化が70年前後に進んだことで、外資の乗っ取りを懸け念ねんした経営者が、持ち合いによる株主安定化を求めた。メインバンクの銀行も、取引先企業の要請とみずからの取引の安定化を考え、これに協力する。しかし、事業会社が株式を持ち合うのも、銀行が融資先の株式を持つのも、本来の資本主義の仕組みを考えればありえないことだった。  企業に時価ファイナンスを売り込んで直接金融の時代を広めつつ、同時に事業会社と銀行が要請した、きわめて日本的な安定株主の論理に答え、株価の維持に努める。この二面性を持った役割を果たしたのが、60年代から70年代にかけての証券会社であり、野村証券であった。  田淵節也は、株式の持ち合いという日本特有の仕組みを完成させた「株を凍らせた男」だった。 「内心忸じく怩じたるものがある」と田淵に言わせたこの役割こそ、ある意味では、日本的な資本主義の強みでもあった。株式持ち合いは、結果として銀行のメインバンク制度を補完し、土地本位制とも言える有担保主義を80年代のバブルの時代まで延命させる役割を担になった。  80年代に入り、レーガノミクスやサッチャリズムなど新保守主義的なイデオロギーが台頭して、グローバリゼーションの時代になると、アメリカを中心に、日本的な制度に対する批判が生まれる。  金融の自由化や時価会計など新しい制度の導入は、これまで日本がやってきた土地本位制による銀行制度や、株式持ち合いによるグループ戦略と、どう見ても共存できるものではなかった。グローバルな新しいルールへの移行を模索する段階を迎えていた。 日本が変わることを夢見て  日米円ドル委員会、前川レポートを軸にした中曽根政権の民活路線など、新しい制度を探る動きは出始めていたものの、それを上回る勢いでバブル経済が展開する。  合理的な価格に収しゅう斂れんすべき土地価格は、80年代に4倍に跳ね上がった。そして株価もほぼ同じ比率で上昇した。ブラックマンデーのニューヨーク発の大暴落は、日本の株価が調整する絶好のチャンスだった。しかし、恐慌の引き金を日本が引いてしまうという政権や官僚のおびえから、株高を加速するような、本来は打つべきではない政策を打つ。日銀も抗し切れずに88年、89年の狂乱相場に突入する。 「東京23区の地価が、アメリカ全体の土地の時価総額を上回る」「冷静なアナリストが一株50万円弱と評価したNTT株が119万7000円で売り出され、上場後には318万円を付ける」「大手都市銀行の一行あたりの時価総額が、世界最強と言われた米国のシティバンクの時価総額の5倍となる」「小金井カントリー俱楽部クラブの一口あたりの会員権が3億円を超え、外国の投資銀行のトップにゴルフ場の値段ですかと聞かれる」  オランダ国民が、一株のチューリップの球根に年収の何倍ものお金を投入した、17世紀のチューリップバブル。それを笑えないような現象が、あちこちで起こっていた。 「この相場はもたない」。内なる声が田淵の直感に働きかけていた。 「海の色が変わった」というコメントは、田淵にとっては、兜町生活40年の万感の思いが込められていた。仮に田淵の予測が当たれば、野村証券の収益は劇的に悪化する。株高の崩壊は、土地価格の下落につながる。住専などのノンバンクの破は綻たんにつながる。そして仕上げは、大蔵省と銀行が持ちつ持たれつで守り続けてきた銀行不倒神話の崩壊である。  田淵はそれをすべて読みきっていた。読みが当たることはみずからの破局も意味した。それでも何かが変わることを止めることはできないと思っていた。  91年8月29日、田淵は衆議院の証券・金融問題の特別委員会の証人喚問を受け、大量推奨販売による株式営業、東急電鉄株をめぐる稲川会の石いし井い進すすむ会長への便宜供与、法人顧客に対する損失補ほ塡てんの問題について質問を受けた。相前後して、野村証券の会長、経団連副会長、日本証券業協会の会長の職も辞した。  彼は株式持ち合いを通じて、日本の株式を凍らせて日本の株高の条件を作り上げ、証券市場のドンと呼ばれるようになった。しかし、株を解かして、新しい日本を作り上げられないままに退場した。  田淵は、ミネベアの高橋高見、ソフトバンクの孫正義といった、日本の企業社会で嫌われ者だった経営者を、会社の枠を越えて支援し続けた。また笹川良一の後継者で日本財団の笹川陽平を、歳としは離れていても生涯の友として立てた。  こうした交友を心配する周囲を「俺がつきあう人間は俺が決める」と一喝した。日本をほんとうに変えるのはアントレプレナー(起業家)であって、決して役人や銀行ではないと思っていた。 「清濁併せ吞のむというのは好きな言葉だ。世の中には善い人間もいれば、悪い人間もいるが、本当に判別できるものなのか。何が清で、何が濁か、人間には分からない。神様だけがご存知で、評価はうんとあとになってから分かる」  田淵節也からあとに「清濁併せ吞む」と言われる経営者を聞かない。バブルが崩壊してからは、「清濁併せ吞む」という言葉は人間の器量の大きさを示すほめ言葉ではなくなったのである。  1989年末に史上最高値をつけた株価は、90年に入ると急落する。どこかで下げ止まるのではないかという淡い期待は実現することなく、その後も真っ逆さまに下がり続けた。  それでも「土地神話」は健在だった。「株と土地は違う」というのが、大蔵官僚や銀行幹部の口癖だった。しかしバブルの時代の株価と土地価格の異常な値上がりには、明らかに密接なつながりがあった。超低金利を背景とした資産バブルの崩壊が、株式市場だけで終わることはありえなかった。株価から遅れること1年半、土地価格も急落する。  当然、銀行は膨大な不良債権を抱え込むことになる。「銀行不倒神話」の崩壊が目の前に迫っていた。しかし大蔵官僚も銀行幹部も現実を直視することができない。現実が見えていても、責任問題につながることを恐れ、見て見ぬふりをしていた。バブルの咎とがを証券会社やバブル紳士たちに押し付け、自分たちだけは生き残れると信じていた。 1 謎なぞの相場師に入れ込んだ興銀の末路  1990年初頭から下がり始めた株価は、バブルに前のめりになった事業会社や金融機関の経営を直撃し、バブルの中で起きていた異様な取引の実態が表に出て来始めた。 「奇妙な大株主の登場に、銀行が揺れている。6月の株主総会シーズンを控え、銀行の総会担当者は株主名簿のチェックに余念がない。この過程で、ある大口個人投資家の名前が浮かんできた。大阪ミナミで料亭を経営するO女史である。第一勧業銀行七百数十万株、日本興業銀行三百数十万株……。『彼女が買った銀行株は大手都市銀行五行と日本興業銀行株といわれている』と関係者は推測する」──91年5月2日の日本経済新聞の朝刊の一面企画「日本人と会社」はこう書き出している。記事は続く。 「折から、山口組系といわれる総会屋グループが、銀行株を含め、東京系の上場企業に相次いで株付け(株主総会に出席するために必要な株式を取得し名義を書き換えること)をしている。銀行の悩みは、アングラ社会にも接点を持つとウワサされる彼女の数百億円単位の銀行株投資と、山口組の東上作戦のかかわりが読めないことだ」  大阪のミナミの料亭経営者Oというのは、大阪ミナミで料亭『恵川』『大黒や』を経営する尾上縫のことだった。バブルの時代、大阪で神がかりの株式投資預言者として評価を高め、証券会社の営業マンが手数料ほしさに門前市をなし、銀行も融資先確保のために足しげく『恵川』通いをしていた。暴力団と直接的な付き合いがあったかどうかは定かではないが、尾上縫が関西地方のアングラ社会のある種の空気を代表していることは間違いなかった。  尾上縫の情報をわれわれに持ちかけて相談してきたのは、複数の興銀関係者だった。長い付き合いのある、銀行マンとして尊敬できる人たちばかりだった。「常識をはずれた規模の、常識をはずれた取引が、日本興業銀行の大阪支店を舞台に行なわれている」。  興銀が発行する割引金融債「ワリコー」を2500億円以上買い付けるほどの、個人としては例のない資金力を持ち、加えてそのワリコーを担保に興銀を含めた複数の銀行やノンバンクから借り入れを行ない、その資金を株式投資に振り向けているというのだ。尾上縫は興銀の個人筆頭株主として登場していた。  暴力団との直接的なかかわりの裏はとれない。またワリコーの巨額投資にしても、ワリコーを担保とした逆ザヤの融資にしても、「異常」で「合理的ではない」経済行為なのだが、それ自体に「違法性」は見当たらない。しかし、割引金融債という、長期信用銀行を含めたごく一部の金融機関にのみ認められた金融商品を、本来の目的を超えた使い方をしていることは確かだった。  割引金融債については、長期信用銀行の歴史のなかでも無記名での購入が可能であることから、一種の脱税商品ではないかとの指摘があり、世間の批判の声も強まっていた。そこで尾上縫という不思議な投資家の存在を、世の中に伝えることで、注意を喚起することにした。  記事掲載を契機に、事態は急展開する。  2カ月あまり後の8月13日、三和銀行系の関西の有力信用金庫である東洋信用金庫が、大阪市内のホテルで記者会見し、「元今里支店長が合計13通、3420億円におよぶ架空預金証書を発行した」と発表した。特定の取引先と共謀し、実体のない架空預金証書を発行、取引先はこれを担保としてノンバンクなどから融資を受けていた。信金は興銀、三和銀行などに支援を要請し、日銀は同日、「東洋信金の信用秩序の維持に努めていく」との声明を出した。  特定の取引先とは尾上縫のことだった。  しかし、3420億円の架空預金証書の発行という前ぜん代だい未み聞もんの金融犯罪は、けっして大阪の一信用金庫の担当部長と尾上縫だけで生み出せる話ではなかった。そこに至るには87年以降のバブルの長い歴史があり、それは東洋信金だけでなく、興銀や山一証券、さらには松下電器系列のナショナルリースなどのノンバンクが絡からみ合った欲得ずくの物語であり、バブル崩壊後の株価急落が生み出したものである。  ちなみに尾上縫という名前は、バブルの最終局面から崩壊に至る段階では、一部の金融関係者の間では、大口借入先のリストなどから話題になっていた。しかし、誰もその実状を知るものはなく、日銀関係者が「繊維会社なのかな」と言った言葉が、笑い話として広まっていた。  尾上縫は1930年(昭和5年)2月22日、奈良県で生まれた。25歳ごろ大阪ミナミのすきやき店『いろは』の仲居になり、10年間休まずに働く努力のかたわら、経済界の有力者といわれるこの店の客と親しくなり、援助を受けるようになった。大阪の住宅メーカー創業者の一族といわれた。その後、65年に料亭『恵川』を開き、さらにマージャン店や『大黒や』を開いて、業容は拡大した。放漫経営だった。それでも店が成り立っていたのは、有力者から受け継いだ財産のおかげだったといわれる。  尾上縫を取り巻いていたのは、この有力者だけでなかった。日本を代表するような創業経営者との関係などもささやかれたりした。また、なぜか税務当局は、彼女の資金源を積極的に洗い直すことをしなかった。  興銀の難波支店長が飛び込みで営業に訪れ、興銀の発行するワリコーを10億円売る契約をしたのが87年3月、そしてこの年の5月に25億円をワリコー担保で大阪支店が融資する。  尾上の株式取引は87年4月ごろからはじまる。日曜日に「行」という奇妙な宗教的儀式を行い、特定の銘柄をあげて株価の見通しを尋ねると、神がかり状態の尾上が「上がるぞよ」「まだ早いぞよ」などと答える。尾上自身に明確な投資尺度などあるはずもなかった。勧誘されるままに、また自分の株占いに基づいて売買した。  その後、ブラックマンデーによる世界的な大暴落にもかかわらず、日本の株価は急回復。「尾上の資産運用は素人しろうとの思いつきであり、危き惧ぐの念をもって付き合っていた」はずの後の大阪副支店長が、いつのまにかバブルによる株高・土地高にのめりこむ。89年に入ると尾上に不動産投資をすすめ、90年には興銀の手ほどきで、不動産管理法人まで設立させる。株価はすでにバブルの崩壊を示していた。  尾上の保有する金融資産の時価は89年末の6182億円から、90年の末には2650億円にまで減少し、負債額は逆に7271億円に膨らんでいた。負債はピーク時には1兆円を上回っていたとも言われる。一日あたりの金利負担が1億7000万円を超えた。金融資産の減少額が、そのまま架空預金証書の発行額に見合っているところがなんとも切ない。  91年8月13日、尾上縫は大阪地検に逮捕される。東洋信金が総額13通、3420億円の架空預金証書を発行していたことを発表したのと同じ日である。  日本興業銀行の尾上縫との取引の経過を、興銀の経営戦略の変化と重ね合わせてみると、わかりやすい絵柄が見えてくる。  興銀は80年代後半から、関西地区での不動産業務、個人顧客拡大のための営業態勢を強化していた。しかし関西地区に有力な足場を持たない興銀にとっては、「割引金融債」を使った個人富裕層開拓が当面のターゲットだった。87年3月から始まった尾上縫との取引は、気がつけば2500億円のワリコーを購入するという異常な取引になっていた。それに対して、異常という感覚は行内には生じていなかった。仮にあっても、それを表だって指摘する声は出なかった。90年4月に興銀はプライベートバンキング(PB、個人の資産管理・運用業務)推進部を設置したが、この時期のPB推進部では「尾上縫との取引が成功モデルと見なされていた」という。  90年8月、黒くろ澤さわ洋よう頭取が料亭『恵川』に夫婦で訪れたのは、すでに株価が89年末の高値から40%近く下落していた時期である。それは同時に、興銀が誘導して不動産管理会社を作らせた直後であり、資金繰り逼ひっ迫ぱくで架空預金証書を東洋信金との間で作り始める直前である。そうした時期に、頭取みずからが個人顧客開拓のモデルとして、尾上のもとを数回にわたって訪問し、酒食を共にする。そこに第一級の金融機関としての興銀の矜きょう持じは感じられない。  92年6月、大阪地裁は尾上の破産宣告を確定、ナショナルリースなどノンバンクを含む12の金融機関から3420億円を詐さ取しゅしていたことが明らかになる。バブルの時代の金融犯罪の規模として負債総額は4300億円と史上最高額であり、個人の破産としても史上最大の規模だった。 興銀の息の根を止めた男  しかしこの史上最大の破産劇は、奇妙な神がかりの相場師が、バブルに浮かれた銀行に対して働いた詐さ欺ぎ事件で終わるところだった。それを押し戻し、日本興業銀行という日本の金融史でも特筆される公益銀行の衰退と堕落の物語として書き直したのが、92年から尾上の破産管財人をつとめ、のちに最高裁判事になる滝たき井い繁しげ男おだった。リベラルな正義感と大阪商法の理解、そして経済知識に裏打ちされた特異な弁護士だった。彼こそが、興銀の息の根を止めた男である。  滝井繁男は36年10月31日生まれ、61年京都大学法学部を卒業後に司法研修、63年に弁護士登録をした。大阪弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長などを歴任して、2002年、最高裁判所判事に就任する。彼は06年のグレーゾーン金利規制によって多重債務者を救済し、その後の過払い金返還訴訟によって、サラ金を殺した男とも呼ばれる。  彼は、92年から2002年まで10年の歳月をかけて尾上縫の破産管財人を務め、合理的な金利のあり方や、金融機関としてあるべき行動原理の探究を貫き通した。  滝井の果たした役割を見事に描き出し、興銀の終しゅう焉えんを浮き彫りにしたのは、村山治(朝日新聞編集委員)と奥おく山やま俊とし宏ひろ(同記者)である。04年11月26日号の週刊朝日の記事だった。二人とも朝日を代表する敏腕の調査報道記者で、奥山は16年に話題となったパナマ文書問題の調査についての日本側の窓口をつとめている。 「2002年6月10日付の官報の片隅に、尾上縫に関する小さな記事が掲載された。主文 本件破産を終結する 決定年月日 平成14年5月28日」。10年におよぶ尾上縫の破産処理の終焉をつげるニュースだが、この間に世間の尾上縫事件に対する関心は薄れていた。しかし内容は、歴史的な転機をつげるものである。  3175億円にのぼる尾上の負債のうち、9割強は損失として消えた。それでも債権者に274億円を返せたのは、管財人が「10年の歳月をかけて、日本興業銀行の悪事の一部を法廷で立証できた」からだ。尾上の破産管財人は、興銀やそのグループ企業の責任を追及した3件の民事訴訟のうち2件で勝訴し、01年12月興銀側から170億円を回収した。特筆すべきは、裁判所が「その背信性には極めて重大で著しいものがある」と興銀をはっきりと加害者として認定したことであった。  村山と奥山による滝井繁男インタビューは秀逸である。「尾上縫本人には被害者の側面もあったという印象を持った。金融機関や証券会社に食い物にされた面があったことは否定できない」「興銀に抱いていた、戦後日本経済を支えた格の高い金融機関というイメージが壊れた」「融資の担保を取るのに興銀のワリコーを買わせれば、逆ざやになって融資先が損をするのはわかりきったことなのに長期にわたって続けた。秀才が集まっているはずの興銀で、そのおかしさに気づかなかったのか疑問だ」。現役の最高裁判事による究極の興銀批判である。そして、融資にかかわった大阪支店の副支店長や難波支店だけでなく、興銀という経営主体の責任だと、明確に指摘している。  そして質問は、ワリコーによる逆ザヤ分の損害賠償を興銀に求めた訴訟の意味に及ぶ。「町の金融業者(いわゆる高利貸し)が同じことをしたら、おそらく不法行為責任に問われただろうが、それを大銀行に問うのは難しいという現実があった。日本の司法に、金融機関の融資が不法行為の対象になりうるということの理解を得ることは難しかった。その後広がった貸手責任論(レンダーズ・ライアビリティ)も当時、日本ではやっと話題になり始めたばかり。管財人でないと、ああいう訴訟は起こせない。普通の人はそれだけのカネも力もない。実験という面もあった。敗訴はしたが、しばらくしたら違う考え方が出てくるかもしれないとの思いがあった」。明快である。これが興銀との3件の民事訴訟で、滝井管財人が唯ゆい一いつ敗れたケースであった。  興銀マンたちが尾上縫の情報を持って私たち日経の取材班に駆け込んできたのも、やむにやまれぬ気持ちからだった。興銀という特殊な銀行に特例として認められている金融債、なかでも匿とく名めい性せいが高く、税制面でも分離課税という優遇措置があるワリコーを発行できる権利を、興銀みずからがないがしろにして貶おとしめる行為が許されるのか。興銀という公益性の高い銀行の存立基盤にかかわる問題であり、彼らの行為は、突き詰めれば、大阪支店の同僚達に対する内部告発でもあった。  滝井の問題提起に答えるには二つの選択肢があった。ワリコーという特殊な金融商品を、顧客の属性を考えたうえで販売する、まっとうな売り方に戻すこと。それでも割引金融債に、分離課税と匿名制という購入者にとっての恩典がある限り、節税的に使われることは避けられない。いま一つは、長期信用銀行という特別な衣を脱ぎすてて、興銀が普通の銀行に転換することである。その時には、ワリコーの特権も放棄することになる。  02年、尾上縫の破産終結の年にみずほ銀行が誕生し、日本興業銀行がみずほコーポレート銀行として、その傘さん下かの銀行として再出発したのは偶然ではない。尾上縫公判の判決にいたる過程が、興銀の経営判断に大きく影響した。そして07年3月をもってワリコーもなくなる。  日本の戦前の近代産業の発展を支え、戦後はまさに日本の「戦後システム」のフラッグシップとして、敬意と尊敬を集めたモデル企業は、こうして消滅の道を歩んだのである。  しかし、滝井繁男が尾上縫の破産管財人をつとめ、バブル崩壊後の10年間に粛々と訴訟を通じて興銀批判を続けてきたことの意味を、私はその当時、取材現場を離れていたこともあって、正確には理解出来ていなかった。そして日本の司法界が、こうした人材を最高裁判事に選び、さらに大きな舞台で、司法として日本の金融界のあるべき変化の道筋をつけることを認めてきたことは、大変意味のあることだったと思う。  滝井が最高裁判事として出した革新的な判決は、サラ金のグレーゾーン金利に対する判決だけではない。  04年、旧日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)が旧住宅金融専門会社に対する不良債権を放棄したときに、国が損金計上を認めないで法人税など1476億円を追徴課税したのは違法だという旧日本興業銀行の訴えについて、最高裁は二審判決をくつがえし、旧興銀の立場を認める判断をした。その裁判長は滝井繁男であった。  旧興銀の息の根を止めた男が、今度は、また同じ時代の興銀の追徴課税1500億円について、高裁判決を覆くつがえして国税当局の判断に異議を唱える。決して国家権力に偏することのない、ダイナミックな判決だった。いや滝井繁男こそダイナミックな裁判官だった。  バブルの時代の敗戦処理という混乱期だったからこそ、戦後システムの暗黙の秩序に異議を唱える滝井の正論が、司法の場で通ったともいえる。  尾上縫という大阪ミナミの料亭経営者の物語は、縫の想おもいを超えて、日本興業銀行という戦後システムを支えた銀行の命運を左右した。そして、トリガーを引いた滝井繁男も2015年、鬼籍に入った。 2 損失補ほ塡てん問題が示した大蔵省のダブルスタンダード  1991年7月29日、日経新聞朝刊の一面トップにスクープ記事が掲載された。 『日立・松下・トヨタなど』『4大証券補てん先判明』『自己申告分 延べ187法人』『年福事業団53億円』  バブル崩壊後の90年3月末までに、四大証券が取引先に対して行なった「損失補塡」の全容を伝える記事だった。横組み白抜きの強烈な見出しは世間の関心の高さを示していた。  国税庁から入手したと思われる証券会社の補塡の事実に関する記事を読売新聞がスクープしたことをきっかけに、この1カ月ばかり、国会、財界、官界を巻き込んで、証券会社の補塡責任論と補塡先企業探しの騒動が広がっていた。日経証券部の土つち屋や直なお也や記者(現「ニュースソクラ」編集長)による記事はこうした流れを決定づけて、監督官庁である大蔵省に対して補塡先の公開を否いや応おうなく認めさせることになった。  90年以降の株価の暴落で、日本経済の先行きに不安感が高まり、個人投資家も中小企業も株価暴落の痛手を被こうむっていた。それなのに、日立製作所、トヨタ自動車、松下電器産業、日産自動車、丸紅といった超一流企業や、年金福祉事業団のような公的な組織だけが、株価下落の痛手を最小限にとどめる「補塡」を証券会社から受けていたという事実は、こうした恩恵をまったく受けることのなかった、中小企業や個人の投資家の怒りを買うのに十分だった。  おまけに、当時、大手証券会社のスキャンダルがいくつも発覚し、世間の証券会社を見る目は厳しくなっていた。とりわけ野村証券は、バブル崩壊前の89年当時、東急電鉄株をめぐる相場に、暴力団稲川会の石井進会長を巻き込んでいることが明らかになっていた。また稲川会が手がける、所有権さえ明確でないゴルフ場の会員権に、野村証券や日興証券が数十億円単位で投資していることも判明する。  6月になると、野村証券社長の田淵義久、日興証券社長の岩いわ崎さき琢たく弥やが、相次いで辞意を表明した。暴力団問題と損失補塡問題の責任をとった辞任劇だった。  この頃から損失補塡への関心が業界全体として高まる。追い討ちをかけるように、6月27日の野村証券の株主総会では、辞任の決まっていた田淵義久が、株主との質疑のなかで、「(補塡は)大蔵省にご承認をいただいている」と発言した。大蔵大臣の橋はし本もと龍りゅう太た郎ろうは、そのことを記者に問われて「(野村証券は大蔵省に)責任転てん嫁かするのか」と激怒した。  7月に入ると、国会は野村証券会長で証券界のドンと呼ばれる田淵節也の証人喚問を求めるなど、株式市場の関係者たちの混乱は極致に達していた。  日経が冒頭の記事を載せたのは、こうしたタイミングだった。  しかし、四半世紀を経ても晴れない謎がある。「損失補塡とは一体何だったのか」という謎である。 大口手数料割引と「にぎり」  日経の「損失補塡」の一連の記事では、損失補塡とは、大蔵省の指示に基づいて四大証券が提出した87年10月から90年3月末までの期間に行なった損失補塡の累るい計けい額がくである。あくまで証券会社の自己申告だ。  したがって、証券会社が、自主的に申告しなければ、損失補塡には含まれない。また91年3月時点で報告しなかった、証券会社や事業会社が責任の所在を明確にしないままに第三者に株式を移転するいわゆる〝飛ばし〟と呼ばれる案件も含まれていない。たとえば、97年の山一証券の倒産の原因になった2600億円の飛ばしは、山一の経営陣が91年3月期の時点で大蔵省に報告しなかった営業特金だった。飛ばしは91年10月以降、明確な違法取引となった。  その意味で、日経新聞が報じた大蔵省の調査結果はその時期を含めて損失補塡の全容ではない。87年から89年のバブルの最盛期にも証券会社は事業会社の要請に応じて個別に損失補塡するケースがあった。90年以降の急落の過程でも、報告に載せないで決着した取引もあった。  ブラックマンデーの項(第2章5)で記したように、89年12月に、大蔵省証券局長の角谷正彦が営業適正化のために証券局長通達を出すが、きっかけはその数カ月前に調査した、大和証券の損失補塡事件だった。そこで角谷は、証券会社が実質的に管理・運用する特定金銭信託、いわゆる「営業特金」が事実上、「にぎり」と呼ばれる利回り保証をした商品であることを正確に認識する。それは損が出たり、目標の利回りを達成できなければ、その分の「損失補塡」を約束することを意味した。しかし、大半は口頭の約束であったり、証券会社の担当者が名刺に裏書きするようなものだった。 「利回り保証」は事件となった大和証券の営業特金だけでなく、証券会社が集めた営業特金のほとんどすべてに蔓まん延えんしていることが明らかになる。また信託銀行が集めたファンドトラストのなかにも、利回りを約束した資金が多かった。  89年末の特金残高は43兆円で、そのうち営業特金の残高は約20兆円。ファントラの残高も10兆円近くに達していた。株式市場が急落すれば、証券会社や信託銀行は約束した利回りに加えて、損失部分を補塡して契約者に返さなければならなくなる。そうなれば、証券会社のなかには経営破は綻たんにおちいる会社も出てきかねない。  大蔵省証券局は、営業特金が、損失補塡を生む可能性があることを重視、90年1月以降3月期末までに①営業特金を廃止して、投資顧問会社に資金を移管させる、②契約を解除する場合には損失補塡を禁止する──という内容の証券局長通達を、12月26日付で出した。  通達通り実行すれば90年3月期には営業特金はすべてなくなっているという理屈である。  リスクをとって証券界の病びょう巣そうに踏み込んだ角谷通達は、官僚として果断な措置だったと思うが、すでに記したように間に合わなかった。年明け以降、日本の株式市場は歴史的な下降局面を迎え、90年3月期までに、「損失補塡なしで」「営業特金を解消する」という大蔵省の意図を証券各社が実現することは不可能な環境だった。  1年半後に日経新聞がスクープした損失補塡リストは、角谷通達のあと、大蔵省が行政権限をもって四大証券から集めたものである。大蔵省があえて黙認して損失補塡を認めた金額だったともいえる。  角谷正彦は94年2月に、角谷通達前後の状況を振り返って、「通達を出した後、大蔵省本省管かん轄かつの証券会社のうち6社で1200億円から1300億円の補塡があったとの報告がありました。後悔先に立たずですが、その事実を(90年3月期の)証券会社の有価証券報告書に記載を求め、行政指導の結果を明らかにするなどで対応しておけば良かったという気持ちを持っています」と語っている。それは1年半にわたって損失補塡の現状を放置したことで、証券会社と大蔵省が談合の上で損失補塡隠しをしていたのではないか、と見られたことに対する反省だった。  改めて、日経新聞の報道で明らかになった損失補塡のリストを検証してみよう。  補塡総額1200億円強、補塡法人延べ187社、トヨタ自動車、日立製作所、松下電器産業など超一流企業が多い。  驚くべきなのは、補塡を指摘された超一流企業が口をそろえて、「補塡の認識はない」と公言したことである。日立製作所などは、記者会見まで開いて「補塡の事実を否定」した。これはなぜだろうか。  当時の損失補塡の議論で、十分に尽くされなかった論点がある。金融自由化の理論的なリーダーだった蠟ろう山やま昌しょう一いち大阪大学教授が提起した問題である。「損失補塡は、形を変えた大口手数料割引だった」という指摘だった。 「自由化が十分に実施されていない日本の市場で、大口手数料割引の変形として損失補塡が行われていたが、批判は感情論に流されて、的をはずしたままだった」と93年2月26日のインタビューで蠟山は語っている。つまり規制によって手数料が一律だったために、大口顧客への優遇措置として損失補塡が用いられたという見方である。  当時の大蔵大臣橋本龍太郎の損失補塡に対する底の浅い理解への批判だった。田淵義久が株主総会でした不用意な発言を橋本蔵相がとがめた時、大蔵省証券局と野村証券の間の補塡の処理をめぐる情報交換は綿密に行なわれていた。蠟山のいう大口手数料割引の変形ともいえる取引を、あえて自発的に「損失補塡」と認めることで、野村証券は、大蔵省の営業特金解消策に最大限の協力をしているつもりだった。こうした事実を橋本はまったく理解していなかった。  蠟山の自由化論で、損失補塡問題のすべてが見えてくるとは思えない。しかし、大口投資家が株価大暴落のなかでも「濡ぬれ手に粟あわ」の利益を享きょう受じゅしているという、一部の新聞報道や大衆の怒りだけで、損失補塡問題に対処することは無理があった。89年12月のピーク時の営業特金は20兆円前後、このうち大半が株式投資だったとみられる。日経平均が半分以下になったことを考えれば、損失は10兆円あってもおかしくない。しかし四大証券の損失補塡額1200億円はそのうち0・6%にすぎない。業界全体の特金額を推計すれば、ほぼ手数料相当分の金額である。  蠟山教授の言うように、大口手数料割引の変形であるという見方が説得力を持つ。補塡リスト発覚後に、大企業のトップや財務担当役員のほとんどが、補塡の自覚なしと言い切っていたのは、日常の取引の過程で実質に割り引かれた手数料が多く、経営トップや財務担当の責任者に伝わっていなかったケースがあったからだろう。  トップの了解もいらないほどに、大手証券会社と大企業の間には密接不可分な関係があったということである。大企業の場合、証券会社が、巨額のエクイティファイナンスの発行手数料の割引分を、発行企業に返す意味合いもあった。  もちろん、こうした手数料割引の変形といって片付けられない損失補塡も数多くあった。永田ファンドと呼ばれる山一証券の運用ファンドで生じた損失は、そのすべてが「にぎり」と呼ばれる、大口定期預金金利を上回る配分を約束したファンドだった。営業資産拡大のために、なりふりかまわず損失補塡を約束して集めた資金だった。  阪和興業が、ダントツの124億円の損失補塡を受けていた。丸紅、伊藤忠、トーメンなどの商社も、関係会社、海外法人などを合計すると60億円から90億円の補塡を受けている。さらに公立学校共済組合、年金福祉事業団など公的年金の運用組織にもにぎりが横行していた。京都信用金庫をはじめさまざまな地方金融機関も補塡リストに名を連ねていた。  しかし、こうした企業以上に不可解なのは、補塡リストに載っていない会社のなかに、政治家の圧力や、官僚の仲介ともみられる動きによって、特例の損失補塡が実行されたケースもあったことだ。東急百貨店の損失補塡をめぐり、山一証券が最後に補塡の決断を下したのは、証券局幹部のアドバイスがあったからだと言われている。また大手外食産業の巨額の損失補塡・飛ばしには、当時の宮沢喜一内閣の主要閣僚が関与していたとされる。  また、阪和興業をはじめ、朝日麦酒ビール、オリンパス工業、ヤクルト、サンリオ、学研、ツムラといった財テクで名をはせた企業は、その後も関係会社に評価損による巨額損失を抱えながら、水面下で取引先の証券会社や信託銀行と交渉していた。  これらの損失補塡は、世の中が忘れた頃に、また当時の実力経営者たちの責任が問われなくなった時期に決算に計上されることになる。2011年に雑誌ファクタの調査報道によって表面化したオリンパス工業の粉飾決算は、その原点をたどれば、90年の株価暴落時の損失の先送りにあったとも言われている。  これらの損失や補塡は、日経新聞がスクープしたリストには載っていない。この種の損失は、闇やみから闇へと移され、すでに処理が終わっているか、行政の眼をかいくぐって、違法な手段によって持ち越されたと考えられる。特に、外銀などを使って海外に飛ばされたものは、転々として、その所在さえつかめないものが多かった。 「ファントラに補塡なし」という二重基準 「損失補塡」の入り口はどこにあったのか。はっきりしている。85年10月の、銀行の大口定期預金の金利の自由化である。当初は10億円単位だった大口定期預金は、86年4月には5億円に、同年9月には3億円、87年4月には1億円、さらに小口化して、89年10月には1000万円となり、大口金利の自由化のスケジュールが完了する。  大口定期の自由化の1カ月前がプラザ合意だった。また、海外の証券業務の活発化で、優良企業は時価発行増資や海外のワラント債で、割安の金利で円資金を調達することが出来るようになっていた。そのお金を、銀行が勧誘する大口定期に回せば、自動的に利ざやがとれる。  手をこまねいていれば、せっかく企業にファイナンスをさせた余資を、銀行にもっていかれてしまう。証券会社は、都市銀行の提示する金利(当時は年6%)に1~2%を上乗せした利回りを提示して、特金で運用する契約を結ぶ。当初は、投資顧問会社が入る運用形態をとっていたが、それでは投資顧問会社の運用報酬分だけコストがかかる。結局、証券会社が直接運用する営業特金にかわっていく。営業特金というのは、わかりやすくいえば、事業会社や機関投資家が、証券会社と結ぶ〝大口預金〟契約だった。  信託銀行も都市銀行の大口定期に対抗するために、ファンドトラストで資金を集める。その場合の予定利回りは常に大口定期預金に対して、何ポイントか上回る配当を約束するものだった。営業特金と同じである。  86年から88年にかけて営業特金とファンドトラストが異様に急増したのは、金融機関の資金獲得競争が背景にあった。そして運用の質は問われなくなっていく。  証券会社や信託銀行は、契約に際して「口」で約束した。そして一歩進めば、担当者が「名刺」に利回りを書いて捺なつ印いんした。さらに特殊なケースでは社長が同席して「契約書」に捺印した。山一証券と阪和興業のケースである。しかし、損失補塡リストに名前が出た大企業にその種の契約に基づく損失補塡があったのかどうかは分からない。契約などなく、お互いの信頼関係のなかで、約束がだまって履行されることが、もっとも望ましい関係なのである。  財テクの項(第2章6)でもふれたが、わずかに、91年にファンドトラストの損失を巡って、三菱商事と三菱信託銀行の間で起こった契約の履行をめぐるトラブルが記憶に残っているだけである。三菱グループの中で、契約をめぐって法的な争いが起こりそうになった時期に、大蔵省銀行局長の土つち田だ正まさ顕あきは国会で「ファントラに補塡なし」と証言した。三菱グループが言うことを聞かなければ、免許会社である信託銀行に対して強権を発動することもあり得るとの覚悟さえ感じさせる証言だった。三菱グループ内部のさざ波が静まる。金曜会という三菱グループの最高機関の長老が調整をしたと言われている。  80年代後半の金融自由化の実情はこんなものだった。企業や機関投資家の財務担当者は、みずからのリスクで運用するのではなく、証券会社と信託銀行にすべてを預けた。証券会社の営業特金にも、信託銀行のファンドトラストにも、ずば抜けた運用のプロフェッショナルがいるわけではない。たまにいても、怒ど濤とうのような株高、土地高の洪水のなかで、独自の運用方針を貫く余地はなかった。88年から89年にかけて、相場の過熱はとどまるところを知らなかった。  89年12月の角谷正彦の証券局長通達は、大蔵省がみずから発した「バブル相場はもう持たない」という宣言であった。同時に「3カ月から半年の猶ゆう予よが欲しい」という祈りにも似た通達でもあった。バブル史のなかで大蔵省が実施した、数少ない「善政」だったと思う。  90年3月末までの損失補塡額、そして翌年に日経がスクープしたリストは、本来、金融自由化が進められていたならば必要なかった「取り過ぎた売買手数料などの還付額」だった。証券界が投資家に対して返済すべきコストだった。  それらを公開したうえで、山一証券などの異常な証券会社については、個別に対応すべきだった。2000億円を上回る〝飛ばし〟は犯罪である。それを見逃す大蔵省証券局はもはや、免許制の証券会社に対する監督官庁とは呼べない。大蔵省が山一の飛ばしの実態を何も知らなかったなどというのは、あってはならないことなのである。  損失補塡問題は、金融自由化のゆがみとタイムラグが引き起こした、日本の金融システムの問題だった。それは、銀行・証券・産業という日本の民間セクターの財務部門すべての問題であり、大蔵省の金融行政の問題だった。  大蔵省は、営業特金問題では証券局の問題として、悪あしき証券会社の「利回り保証」を摘発した。一方、ファンドトラストは銀行局の問題として処理して、「利回り保証はなかった」ことにした。全く同質の二つの損失補塡の問題を、証券局と銀行局という二つの組織が、二つの異なる基準と価値観で処理したのである。  しかし、どちらにも「利回り保証」はあったのである。それが財テクの実態だった。資産をたらい回しにして、国民の資産である年金資産の含み益まで痛めて、利益を調整している信託銀行まであったと言われる。  土田銀行局長の「ファントラに損失補塡はない」という発言で、91年の国会の追及も沙さ汰た止やみとなり、信託銀行に対する調査は止まった。土田は信託銀行の危機を未然に防いだ名局長という評価が財務省にはいまでも伝わっている。そして、2000年5月には歴代超大物次官がすわるポストだった東京証券取引所理事長に就任し、翌年の11月には東証の民営化を実現して初代社長になる。  6月27日の株主総会における田淵義久社長の発言「大蔵省のご承認をいただいている」は、橋本龍太郎の激怒によって、田淵の舌足らずな表現として、歴史的になかったこととして片付けられ、二度と表の議論にならなかった。そのことに異議を申し立てた野村証券や証券局の幹部がいたとも聞かない。  バブルの時代は、同時に金融自由化の時代でもあった。証券業の手数料制度は、このバブルの時代に変更しなければならなかった。その議論は何度も俎そ上じょうにのぼっていた。しかし、証券業界も大蔵省も、実行することを躊ちゅう躇ちょしていた。土地高・株高を利用して、既存の仕組みの裏側で、含み益を再配分して処理してきた。それは信託銀行業界も同様だった。ひとたび土地・株価が暴落すると、矛盾が一気に顕在化する。  金融自由化の大前提となる、あらゆる市場参加者に対する透明な情報公開と投資家の参入する「機会の平等」を保証する制度を作り上げることを怠っているうちに、バブルが崩壊し、国民の間で「結果の平等」が維持されていないことに対する怒りが爆発した。その混乱こそが損失補塡問題だったとも言える。  大蔵省は、その処理に当たって、みずからの非を認めないで、営業特金については証券会社だけに責めを負わせ、信託銀行のファンドトラストについては、損失補塡問題が一切なかったことで蓋ふたをした。  バブルの内実を知らない、「裸の王様」を権力に戴いただいた不幸であり、大蔵省の政策の誤りであった。それは、その後の銀行の土地問題に対する対応の誤りにつながり、銀行の経営危機を通じて、「失われた20年」という長いデフレの時代の主因となる。 3 幻の公的資金投入  歴史に「たられば」は禁物ということは百も承知で、「もしあの時にあれが実現していたら」と思うことがある。  1992年6月、自衛隊の海外派遣を認めるPKO(国連平和維持活動)協力法が成立して国会は閉幕、その後の参院選も乗り切った宮沢喜一首相は、軽井沢で夏休みを過ごしていた。8月17日、その1週間前の11日に危機ラインといわれた1万5000円を割り込んだ株価は、反発することなく引き続き危機ラインでもたついていた。報告を受けて、宮沢は危機感を強める。もしも明日これ以上株価が急落するようなことがあれば、何か対策を打たないとまずい。株価は89年12月末のバブルの最高値から9カ月後には瞬間的に2万円を割り込み、その後もみ合いのあと下値を切り下げ、ついに危機ゾーンにまで迫りつつあった。日経平均1万5000円は、銀行の株式の含み益が完全に吹き飛ぶ水準だった。  宮沢喜一と日銀総裁の三重野康。宮沢政権成立後、二人は緊密に連絡を取り合い独自のホットラインを築くまでになっていた。株価が危機ゾーンにまで下がったなら、東京証券取引所をはじめ全国の取引所の取引を止めた上で、抜本的な対策を講じる。公的資金の投入も辞さない。宮沢はかねてからの持論を三重野に披ひ瀝れきし、ある種の合意に到いたっていた。  宮沢が確信していたのは、今回の危機は株式市場の危機ではなく、日本の金融市場全体の危機であるということだった。それは「土地神話」の危機であり「銀行不倒神話」の危機であるということを意味した。しかし、株価の先行的な下げに比べて、土地価格の下げは1年半遅れていた。その遅れが、官僚や銀行家に奇妙な安あん堵ど感かんをもたらしていた。「株と土地は違う」と考えている大蔵官僚や銀行経営者は多かった。  三重野の危機感も、凡百の官僚や銀行家とは違っていた。しかし三重野の立場は、微妙かつ矛盾に満ちていた。澄田智日銀総裁の時代に、金融緩和によってバブル経済、とりわけ土地高を加速するという、日銀副総裁として痛恨の過あやまちを犯したという自責の念があった。それはグローバリゼーションが進むなかでの国際政治にかかわる問題でもあったが、国内の金融政策をあずかる日本銀行としては、インフレの番人としての役割が最大の責務であった。バブルの時代に資産インフレに対する認識と対応を誤ったという反省があった。  89年12月、三重野が日銀総裁に就任してからの金融政策は鬼気迫るモノだった。副総裁である三重野が次期総裁として実質的な金融政策を担になった89年5月以降、2・5%→3・25%、10月3・75%、12月4・25%、90年3月5・25%、8月に6・0%と、わずか1年強の間に5回の公定歩合引き上げに踏み切り、公定歩合は6%に上昇していた。三重野が「鬼平」とあだ名され、庶民の味方としてもてはやされた時期だった。一方、土地高に警戒感を強めた大蔵省では、90年3月27日に橋本龍太郎大蔵大臣が「不動産関連融資に対する総量規制」を発表していた。  90年3月、大蔵省が打ち出した総量規制は、不動産業界向けの融資の伸び率を、融資総額の伸び率以下に抑えるという行政指導だった。73年に田中内閣の列島改造論のピークに一度だけ発動されたことがあった。しかし、建設、不動産、ノンバンクに対する強制的な融資規制を意味する総量規制は、「自由主義市場経済」を否定する政策でもあった。  土地に対する規制は劇薬である。それに気づいた大蔵省は、91年12月に不動産融資の総量規制を解除していたが、ひとたび冷え込んだ流れは止まりようもない。92年以降の土地価格の変調を、ひとえに日銀の金利政策に帰することは、国民にとってわかりやすい結論だった。三重野に対するメディアの評価は、「鬼平」から「平成の三悪人」というふうに移り変わり始めていた。平成の三悪人は宮沢総理、橋本蔵相、三重野日銀総裁の三人を指す言葉だったが、誰もが思い描くのは三重野康日銀総裁のことだった。  三重野自身のスタンスと覚悟ははっきりしていた。バブルでかさ上げされた土地価格はまだ高すぎる。しかし株価の下げと、それに連鎖した土地価格の暴落が信用システムの危機につながることも困る。ジレンマだった。  システミック・リスクという言葉が、金融関係者の間に広がり始めた時期だった。87年のブラックマンデーをきっかけに、1929年のアメリカの大だい恐きょう慌こうの再考がはじまり、中央銀行の「最後の貸し手(ラスト・リゾート)」としての機能に関心が高まっていた。中央銀行の役割に、「インフレの番人」に加えて、「信用秩序の維持」が加わった。  宮沢首相の構想は、土地の買い上げ機関をつくり、そこに公的資金を投入するというものだった。三重野のジレンマをすっきりと解消するものではなかったが、意味のある対応策だった。だからこそ、宮沢との間で「ある種の合意」が可能だったのである。  8月17日の午後、宮沢は三重野日銀総裁に電話を入れる。「三重野くん、ちょっと危なくなったなあ」と声を掛けると、三重野は「総理、日銀としてはあらゆる手段を用意しています」と答えた。三重野も金融システムの危機に苦悩しており、必要とあらば日銀特融も辞さないという意思を伝えた。宮沢は「もしも明日、株価(日経平均)が1万4000円を割り込むようなことがあれば、行動する」ことを伝えて、電話を切る。  バブル崩壊からわずか2年半のこの時期に、国権の最高ポストである総理と、金融政策の守護神ともいえる日本銀行総裁が認識と覚悟を共有し、抜本的対策についての合意ができていたことは記憶にとどめておきたい。 大蔵省と銀行首脳の抵抗  その日の午後9時過ぎ、秘書官の中なか島じま義よし雄おが宮沢の別荘に滑り込む。中島はこの3年後の主計局次長時代に、過剰接待問題で大蔵省を去ることになるが、当時は秘書官として宮沢の知恵袋をもって任じていた。また宮沢も中島の役割に信を置いていた。  しかし中島には、公的資金問題について宮沢の意図を理解し、実現するつもりは全くなかった。中島は大蔵官僚の利害を体現していた。「東証の緊急閉鎖」と「公的資金の投入」。そのどちらについても反対し、宮沢が帰京して記者会見することを、体を張って阻止する。そして、「金融行政の当面の運営方針」と書いてあるペーパーを差し出す。  当時、日本経済新聞記者だった吉よし次つぐ弘ひろ志し(現テレビ東京経営企画局長)は『検証バブル 犯意なき過ち』のなかで、「大蔵省の準備した数枚の〝紙〟が宮沢の描いた金融安定化のシナリオを止めた」と書いている。 「当面の運営方針」では金融機関の担保不動産を買う「土地買い取り機構」について検討してはいるが公的資金によるものではなかった。その本質は株価対策が主体の「事態の先送り」だった。それは大蔵省の論理だった。中島の必死のとりなしに、宮沢の心も揺れる。  翌日、宮沢は「当面の運営方針」を発表する。そのかいもあって、株価は1万4000円割れにはいたらず、8月28日の政府の総合経済対策の発表によって、1万8000円近くまで持ち直す。  それでも宮沢の、公的資金の投入が必要だという信念にゆるぎはなかった。バブル崩壊の深度がそれほどすさまじいものになるだろうと考えていたということでもある。  8月30日、自民党の軽井沢セミナーで講演した宮沢は、金融機関が融資の担保として保有する不動産の流動化が、もっとも重要な施策であることを表明し、「必要ならば公的資金の投入をすることはやぶさかでない」と述べる。一国の首相が公式の場で、公的資金の投入の必要性に言及した瞬間だった。  この時の講演で、公的資金が日銀特融なのか、財政投融資なのか、一般会計からの税金投入なのかをはっきりさせなかったことで、宮沢の公的資金投入に関する知識や覚悟を疑う声があった。しかし、それは明らかな間違いである。宮沢は大蔵省など政策を推進する事務方の手足を縛りたくなかったのである。同時に、日本をとりまく事態が公的な資金の投入を必要とするような状況であることを「何らかの形で国民に伝える必要がある」と思っていた。政治家として内閣総理大臣としての矜きょう持じだった。  宮沢の覚悟は20年以上の時を超え明らかになる。住友銀行の頭取・会長を務めあげ、「不良債権と寝た男」と自認する西川善文は、先にも取り上げた回顧録『ザ・ラストバンカー』の中で、外夫元頭取の話を記している。 「実は92年の8月に、宮沢喜一総理から軽井沢の別荘に招かれたことがあってね。行ってみると、そこには三菱、第一勧銀など大手行の頭取が全員、顔を揃そろえていた。不良債権を処理するための金融機関への公的資金注入についてどう思うか、内々の相談のようなものだったんだ」「頭取は皆、反対したよ。当時は財界も否定的だったからね。今思うと、あの時に決めておけば、こんな(不良債権処理をめぐって)大騒ぎにならなかっただろうに」と語ったという。  は、自分もふくめたメガバンクの首脳が総理の打診に揃って拒否の姿勢を示したことを、自責の念をこめて西川に語った。が西川に話したのは、が会長に就任した直後の話だというから93年の夏頃のことであろう。  西川は「宮沢首相は、軽井沢で開かれていた自民党の夏期セミナーで、『公的援助』という表現で公的資金投入について触れていたが、その前提として銀行首脳を呼んで極秘に会合を行っていたことはマスコミには一切漏れておらず、私もこのときが初耳だった」としたうえで「(銀行首脳が)なぜ反対したのかについては聞かなかったが、公的資金が注入されるとトップの責任問題につながると懸け念ねんしたのであろう」と述べている。恐らく8月17日の昼、場所は宮沢の別荘ではなく、別のところだったと言われる。  当時もバブルの終戦処理に悪戦苦闘していた西川は、「本当にその時に決めてくれれば、今になって毎日こんな苦労をしなくてもよかったのに」とため息をついていた。92年の夏からわずか1年後のことだった。  宮沢の軽井沢発言の直後、大蔵省は92年9月末時点の大手21銀行の不良債権について、12兆3000億円という数字を公表している。あまりにも過小な数字であり、事実を誤認させる数字だった。  この頃、野村総研社長の水みな口ぐち弘こう一いちは、緊急事態の中の対応策を官邸に提出していた。バブル時代にその崩壊をしっかりと予測していたストラテジスト、高たか尾お義よし一かずを中心にまとめさせたものだった。彼らの推計では、大蔵省の公表数字とは大きく違い、不良債権額は40~50兆円に達していた。野村総研の提言は、70年代の英国と日本の現状の類似性を指摘した上で、GDPの2%を対策に投じた英国の「救命艇活動」を評価し、日本に10兆円の公的資金投入を促すものだった。  宮沢はこのレポート内容も理解していた。またこの年の5月に英FT(フィナンシャルタイムズ)が邦銀の不良債権が巨額に達すると報じた記事も読んでいた。宮沢の直感は、大蔵省の報告よりも、民間の報告や海外のメディアを評価したのである。それは正しい判断だった。  宮沢の軽井沢演説による公的資金投入論は、尻しりすぼみになる。断を下した形になったのが、永なが野の健たけし日経連会長の9月2日の会見だった。 「公的資金で助けてもらおうというのなら、銀行には、賃金など経営情報をきちんと公開してもらわなければ、世間は納得しない」という一言である。日経連は毎年6月に春闘を踏まえて、各業界の平均賃金を「定期賃金調査」としてまとめている。ところが、銀行は大半が回答を拒み続けていた。日経連の副会長だった宮みや崎ざき邦くに次じ会長が所属する第一勧業銀行でさえ、従業員の賃金は公開していなかった。その宮崎は総会屋事件での逮捕を前にして97年に自殺する。  永野とは同じ三菱グループの後輩にあたる若わか井い恒つね雄お三菱銀行頭取は、全銀協(全国銀行協会)会長でもあり、賃金情報の公開について反対の急きゅう先せん鋒ぽうだった。  当時、金融界の給与は、製造業に比べてはるかに高い水準に張り付いていると言われていた。それ以上に大蔵省監督下の規制業種であることが、こうした常識はずれの行動原理として染しみついていた。永野は「バンカーは特殊なプライドをお持ちのようだが、そうした特殊なプライドが許される状況ではない。公的な援助を受けようというなら、もっと経営内容をオープンで透明なものにしなければならない」と注文をつけた。  歯に衣きぬ着せぬ永野発言は世論の賛同を得る。不幸だったのは、永野の批判は規制にあぐらをかいてきた銀行業のあり方に対する批判だったにもかかわらず、宮沢喜一の考えていた公的資金投入論への反対のように受けとめられたことだった。 「すべての問題は土地から生じている。しかし今、日本の土地神話を否定したら、銀行全部がひっくり返っちゃう。土地に立脚した信用秩序そのものを覆くつがえすような荒療治を望むわけにはいかない。担保不動産の買い取り機関を早く始動して、その買い上げ価格を一つの指標として20年間キープする」という構想を、永野は日経ビジネスの関せき山やま豊ほう成せい編集長のインタビューに答えている。 「地価は本来、現状の半額程度には下落しないといけない。しかし、信用システムを破壊しないために、あるべき価格の倍かもしれないが、とりあえず地価を維持する」「買い上げるだけなら何とか銀行にもできる。ただし、20年間価格をキープするための金利などコストは銀行だけではまかなえないでしょう。そこで、公的資金を利用する」と続ける。  宮沢喜一、三重野康、そして永野健の土地問題に対する意識、そして公的資金についての考え方は、実質的にはほとんど違いはなかった。バブル崩壊のポイントは、単なる株価問題ではなく土地問題であるとともに、長い間の規制によって弛し緩かんした銀行経営の問題だという認識である。  宮沢、三重野、そして永野の知恵は、本来一体となって、大蔵省や銀行界に向けられるべきものだった。しかしそれは生かされなかった。大蔵省の危機意識の欠落と、銀行経営者の自己保身が、宮沢構想をつぶしたのである。  宮沢は2006年の日本経済新聞の「私の履歴書」のなかで、当時を振り返っている。  8月30日の講演について、危機は根深いと危き惧ぐした上で、担保不動産の買い上げ会社構想について「必要なら公的関与をすることにやぶさかでない」と表明したと述べる。 「しかしマスコミも含め誰も賛成してくれなかった。大蔵省は『変なことを言ってもらっては困る』という態度だ。銀行の頭取は『冗談じゃない。うちはそんな変な経営状態ではない』と思っている。経済界も『銀行にカネを出すなんて』と反発した。経団連の平ひら岩いわ外がい四し会長は『そんなことは考えることもできません』とけんもほろろだった」。インテリの宮沢にして、激しい筆致である。 「我慢していれば、いずれ株価も地価も上がる。まだそんな楽観論が支配して、結果として不良債権処理が遅れてしまった」という言葉には、当時の官僚と銀行と経済界の首脳に対する、激しい憤いきどおりが込められている。  いまにして振り返れば、92年8月はバブル崩壊後の日本が復活する最後のチャンスだった。しかし、このとき公的資金を導入できなかったことについて、宮沢喜一の総理としての実行力の足りなさだという声が、今に至るまで聞かれる。「宮沢さんは評論家だから」といった声さえある。  しかし、宮沢喜一と三重野康。内閣総理大臣と日本銀行総裁が歩調を合わせても実現できない政策とは一体何なのだろう。  それを阻害したのは銀行と官僚。あえていえば、政官民の鉄の三角形のなれの果てだった。  そして翌年、細ほそ川かわ(護もり熙ひろ)政権が成立して、自民党の55年体制は終わりをつげる。宮沢喜一は55年体制の徳川慶よし喜のぶと呼ばれる。 「失われた10年」、そして「20年」が始まるのはこの頃からである。地価は〝賢人〟達の見通しをはるかに上回る暴落をして、銀行経営を直撃することになる。 おわりに 「円高というのは円の価値が上がるということ。良いことではないのですか」。日本中に円高危機論が充満し始めた頃に、昭和天皇が経済の専門家の皇室参与にこう質問されたことがあるという。日本にとって本質的な問いかけだった。  別の言い方をすれば、天皇陛下の質問は、どんな円高になっても生き残れる国に、経済の仕組みや制度を変えなければいけないのではないか、という問題提起でもある。  この疑問に、日本のリーダーたちは真っ向から取り組むことをしなかった。取り組む人がいれば、周囲が羽交い締めにして阻止した。それが、日本の構造改革を遅らせ、80年代後半の株式・土地バブルを生んだのである。  89年1月7日、昭和天皇が崩御し、昭和から平成の時代へと移行する。バブル崩壊の1年前のことだった。太平洋戦争から戦後の高度成長、さらにはバブルの時代を見続けた昭和天皇は、まさに時代の転機を画する疑問符を投げかけた。  また、同年11月9~10日には、ベルリンの壁が崩壊する。61年に建設されたベルリンの壁の崩壊は、東西冷戦の終しゅう焉えんを意味した。85年にソ連のゴルバチョフ書記長が始めたペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)の進展とともに、世界では第二次世界大戦後の体制の変化と、共産主義・社会主義の自壊が進むが、その象徴がベルリンの壁の崩壊であり、91年のソ連解体だった。  そして90年8月2日のイラクのクウェート侵攻を契機に、91年1月には湾岸戦争も始まる。  93年8月には宮沢政権にかわって細川(護熙)政権が成立し、55年以来続いた自民党政権による一党支配の時代(55年体制)は終わる。  日本史の、そして世界史の激動の時代の最中に、日本のバブルは、最終局面を迎えそして崩壊した。  80年代のバブルの増殖と崩壊とは、いったい何だったのだろうか。  それは、戦後の復興から高度成長期、つまりアメリカへのキャッチアップの過程を、日本固有の資本主義=渋沢資本主義によってなんとか乗り越えた日本が、70年代前半のニクソンショック、変動相場制への移行、そしてオイルショックという世界経済の激動のなかで直面した第二の危機であり、変革期の産みの苦しみであった。日本は新しい仕組みづくりや制度改革を先送りしてごまかしたことで、第二の敗戦ともいうべき大きな痛手を被こうむった。 「いいとこどり」という当時流行した言葉に示されるように、金融自由化や雇用制度などの受け入れやすい美お味いしいところだけを取り入れて、会計制度の整備や官僚制度の改革の問題など、血が流れる厳しいテーマには立ち向かわなかった。その結果、解消すべき矛盾は、歪ゆがんだ形で増幅し、拡大した。  土地の有担保制を前提とした銀行と事業会社の関係は、その象徴だった。企業の土地は、簿外の時価資産として本来の目的以外に使われ、さらに蓄積される。また日本特有の事業会社による株式保有と、銀行と証券会社を巻き込んだ株式の持ち合いは、歪んだ株高の根拠となった。土地と株式の「含み益」は、表面的には日本の経済システムの安定性を維持した。しかし国際社会に通用する本来の収益力を手に入れるための日本の変革を阻害した。  85年のプラザ合意から、87年のルーブル合意、そしてブラックマンデーの株価暴落にいたる過程は、まさに昭和天皇の「疑問」を、日本の会社、銀行、そして何よりも官僚に突き付けた。しかし日本のリーダーたちは、円高にも耐えうる日本の経済構造の変革を選ばずに、日銀は低金利政策を、政府は為替介入を、そして民間の企業や銀行は、財テク収益の拡大の道を選んだ。そして、異常な株高政策が導入され、土地高も加速した。  その大きなツケを支払う過程が、「失われた20年」といわれる、バブル崩壊から現在まで続くデフレ状況である。アベノミクスというのは、80年代のバブルの時代の失政を償うための経済政策でもあるのだ。 「上げるべきところで金利を上げなかった日銀の罪」「機関投資家に株を買うように誘導した大蔵省の罪」「不動産融資にのめり込んだ銀行の罪」「特金・ファントラをリスクなき財テクのように扱った事業会社の罪」「会社の価値を収益ではなく含み資産で計算した証券会社の罪」。  87年のブラックマンデー以降のバブル最終局面の、様々なセクターの明らかな失敗の教訓はいくらでも挙げられる。  これまで数多くのバブル論が語られてきた。また、バブルを反省する声もたくさんあった。ただ、あのバブルの時代の渦か中ちゅうに、誰がどう振る舞っていたか、またどの組織が、どんな行動を取っていたかを、語っているものが少ない。  誰が何にチャレンジしていたのか。そして何に敗れ、何を否定されたのか。バブルの時代という大きなうねりのなかで、敗れて行った人たちや、否定された人たちの行動の中にこそ、変革への正しい道筋が埋もれているのではないのか。  この本で取り上げた事実の中には、30年の時を超えて新しいニュースがあると自負している。「あの頃には書けなかったこと」「あの頃には見えていなかったこと」「今の時代になって明らかになったこと」があるからだ。 「87年1月の成田芳穂副社長の自殺の時点で、山一証券の倒産が決まった」というのは私の仮説である。しかし、あの時に、事件にならなかった三菱重工転換社債事件の立件を東京地検特捜部が進めていたら、また山一証券の経営幹部が違法性の高い営業特金に依存しない体制へと見直しを進めていたら、そして私を含めたマスメディアがもっとしっかりと報道していたら、その後の山一証券の歴史も、日本のバブル史も違っていただろうと思う。もちろんリクルート事件もその様相を変えていただろう。 「モルガン銀行と野村証券が信託会社を設立」。83年に日経が報じたこのニュースが、仮に実現していたら、日本の信託行政、そして銀行行政にとっては大きな転機になったと思う。信託銀行が開発した特定金銭信託とファンドトラストという財テク商品。その80年代半ばからの取り扱いや意味づけは違ったものになっていただろう。しかし、世界一の金融グループのモルガン銀行と野村証券のこの試みを、大蔵省と銀行業界は徹頭徹尾無視した。  本編でも触れたが、バブル崩壊後の91年、特金・ファントラ問題が損失補ほ塡てん問題の元凶として国会で取り上げられると、銀行局長は「ファントラに補塡なし」と明言して切り抜けた。そして証券会社の営業特金問題は、諸悪の根源として叩たたかれた。あの時の判断が、90年の不動産向けの土地の総量規制と並ぶ、大蔵省の二大失政だったことは、今では財務省(旧大蔵省)も内々に認めている。こうした判断に、大蔵省と野村証券の信託銀行をめぐる遺恨は関係していなかったか。バブル史をめぐる、今も残る闇やみである。  そして、小谷光浩の「住友銀行は心のふるさとだ」という発言。恐喝、株価操縦によって犯罪者として獄中で暮らした小谷の言葉を活字にすることを、快く思わない人がいることはわかっている。しかし、この一言ほど、バブルの時代の銀行と不動産融資の関係を端的に表現している言葉はない。70年代末に経営コンサルタントのマッキンゼーを入れて、経営組織の抜本的改革に取り組み、審査と営業を一体化する。そして不動産事業へ傾斜する。住友の営業方式に煽あおられて、あらゆる銀行が、大なり小なり住友方式を取り入れたのが、80年代後半の銀行の営業だった。住友式の営業方式の浸透なくして、小谷光浩だけではなく、秀和の小林茂もEIEの高橋治則も、麻布建物の渡辺喜太郞も、バブル社会の寵ちょう児じにはならなかった。バブルは銀行とノンバンクの融資とともにあったのである。  全編を通じてバランスのとれた構成になったかといわれれば自信はない。私は73年から20年間、兜町で生き、暮らした証券記者であり、それ以降も、日経ビジネスや日経MJの編集長を通じて、生きた経済の現場から考えることを続けてきた記者である。  直接金融か間接金融かと言われれば、証券会社がになってきた直接金融への道に、少なくとも肩を入れたいと思う。何よりも、秀和の小林茂、麻布建物の渡辺喜太郞、光進の小谷光浩など日本の経済社会で異端児、もっといえば成り上がりと蔑さげすまれていた人たちに、ある種の親近感をもっていた。バブルのあの時代に「成り上がろう」としたら、この人たちにとって他に表現方法はなかった、と今でも思う。問題があったとすれば、このような人たちの野心や欲望に、何の反省もなく融資し続けた銀行でありノンバンクではないだろうか。またそうした制度を放置しつづけた行政ではないだろうか。  資本主義のなかの企業家精神には、いつも上昇志向とともに、ある種のいかがわしさが潜んでいるものなのである。それをチェックし、上限を設けるのが、金融機関であり、官僚の仕事ではなかったか。  バブルの起点である86年から30年がたった。日本は「失われた20年」を経て、デフレという一見当時とは逆の環境にあるようにも見える。しかし何かあの頃と、80年代と似たものを感じている。  デフレ脱却の名のもとに行使される、節度のない金融政策への依存、株式市場はコントロール出来るという妄想。そして、突然のように湧わき上がった田中角栄ブーム。  96年2月12日。司し馬ば遼りょう太た郎ろうは、産経新聞の風ふう塵じん抄じょうに、遺言とも言える言葉を残して逝いった。当時、不良債権を大量に抱えた住専に対して、公的資金を投入すべきかどうかが、国民的な議論になっていた。もちろん反対する声が多かった。司馬はこの問題を人生の最後のコラムのテーマと決め、「資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。……資本主義はその大原則をまもってつねに筋肉質でなければならず、でなければ亡ほろぶか、単に水ぶくれになってしまう」と資本主義の原則を示した上で、日本人が土地を投機の対象にしたことに怒りを表し、それを諫いさめるような思想書が書かれなかったことを嘆く。そしてこう結ぶ。 「住専の問題がおこっている。日本国にもはや明日がないようなこの事態に、せめて公的資金でそれを始末するのは当然なことである。その始末の痛みを通じて、土地を無用にさわることがいかに悪であったかを──思想書をもたぬままながら──国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国に明日はない」  国民的歴史作家だった司馬は、個人の悪口をあまり言わない。唯ゆい一いつの例外が田中角栄だった。『日本列島改造論』以降、土地を商品にした田中角栄を生涯の敵と見定めていた。  そして20年、銀行の不倒神話も土地神話ももはやない。逆に、緩衝地帯となっていた土地や銀行にその力はもはやなく、一朝事あれば、中央銀行である日本銀行や、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)や日本郵政など国民の資産を運用する機関投資家を直撃することになる。最後の貸し手である日本銀行が仁王立ちして地肌をさらしているのである。コントロールをしくじれば、国民生活を直撃し、国家さえ破は綻たんしかねない。  安倍総理に、黒田日銀総裁に、かつて公的資金を投入しようとした宮沢喜一と三重野康のような、洞察力と責任感は果たしてあるのだろうか。自省の心が欠けていると思うのは私だけだろうか。  バブルは同じ顔をしてやってこない。しかし、われわれは生きている時代に真しん摯しに向き合わなければならない。だからこそ、日本のバブルの歴史を今一度学び直す必要があると思う。 あとがき 「永野さんは1987年から92年の5年間はいい記者でしたね」。後輩の記者からの〝大変失礼〟な問いかけがなければ、この本は出来上がっていなかった。記者というのは、少年のような思い込みと情熱で動かされる動物である。私は、この後輩の質問に反発して、「君はいつ、いい記者だったんだい」と問い返した記憶がある。  しかし、彼の指摘は、実は愛情にあふれたものだった。  87年はNTT株公開とブラックマンデーの年であり、92年は株式だけでなく土地もふくめたバブルの崩壊がはっきりと確認された年である。  その間に日経平均が最高値をつけた89年12月29日の大納会が挟まっている。今になって振り返れば、この日は、まさに日本の戦後システムにとっての「敗戦記念日」だった。  日本の戦後の経済史のなかで、いやもしかすると世界史のなかでも、第二次世界大戦後のもっとも重要な転機に、日本のバブルの最前線で迷走していた私を「いい記者だった」と見てくれていた人がいた。  私にとって、この時期は、黄金の日々だった。82年に重度の拡張型心筋症で病に倒れて、かろうじて、だましだまし新聞記者生活を続けることができたが、それを支えてくれたのが、日本経済新聞の、とりわけ証券部の仲間たちだった。もちろん私の同期で、いまも経済情報誌「ファクタ」で、過激なジャーナリストを続ける阿あ部べ重しげ夫おも近くにいた。  バブルの崩壊から四半世紀を経た今も、崩壊をめぐる反省と検証の本が数多く出版されている。しかし、私としては物足りなさを感じることが多い。それは、銀行の救済策であったり、金融政策をめぐる成功・失敗の評価であったり、バブルを事後的に、あるいは外側から見ているものが多いような気がしたからだ。隔かっ靴か搔そう痒ようなのである。  バブルの最前線で揉もまれ迷走していた立場からいうと、バブルとは、何よりも野心と血気に満ちた成り上がり者たちの一発逆転の成功物語であり、彼らの野心を支える金融機関の虚々実々の利益追求と変節の物語である。そして変えるべき制度を変えないで先送りをしておきながら、利益や出世には敏感な官僚やサラリーマンたちの、欲と出世がからんだ「いいとこ取り」の物語である。そして最後には、国民ぐるみのユーフォリア(熱狂)である。  こうした時代の空気とバブルの主役達を語るのは、私自身の役割ではないか、という思いが徐々に高まってきた。しかし、それは壮大なエネルギーのいる仕事のように思われた。  2012年に生まれた安倍晋三の第二次内閣が、空前の金融緩和政策をとりながら、アベノミクスと呼ばれるデフレ脱却政策をとり始めていた。ありていにいえば、「バブル」を意図的につくる政策である。必要ではあるが、危険な政策である。まかり間違えば、日本を破局に導く政策だと思われた。今も思っている。  私は、みずからの記者生活を振り返るとともに、現代に生かすために、バブルの時代の原稿に取り組み始めた。私が、このバブル本に悪戦苦闘していると、「デフレの脱却も出来ないのになぜ今、バブルなの。それも30年前のことを」という人もいた。しかし、デフレの中でもバブルは生まれるのである。  私がこの本で伝えたかったことは、カジノ資本主義がグローバリゼーションを通じて世界に広がるなかで、80年代の日本のバブルの時代の教訓を、現代の日本の、そして世界の政策に生かさなくてはいけない。何よりも、あの時代を知る人が少しずつ着実に少なくなっている。現に、この本を書いている過程でも、たくさんの当事者が鬼籍に入っている。語るべき人たちに語っておいて貰もらわなければならない。  この本の成立について、お礼をいわなければいけない人はあまりにも多い。多少の違和感を覚えつつ、まず我が父について語りたい。私の父、永野健は、バブルの時代の最終局面から崩壊にいたるこの時期、三菱マテリアルの会長であり、同時に日経連会長として財界のリーダーでもあった。  この父に、私が生涯にただ一度、私自身の仕事について相談をもちかけたことがある。92年の初めのことである。  その前年、大阪地検特捜部はイトマン事件の冒頭陳述で、日本経済新聞の記者が取材の内容をもらし、1000万円を受け取っていた、と書いた。  日本経済新聞社にとっては、おそらく戦後最大の危機だった。これが事実ならば、メディアとしての日本経済新聞の名誉は地に落ちていたと思う。社内に調査委員会を組織し、徹底した社内調査が行なわれる。私も〝取り調べ〟を受けた一人である。もちろん私個人の記者としての行動にはなんの瑕か疵しもない。会社の調査報告が91年暮れに出され、一件落着と思っていた。  ところが92年に入り、新聞や雑誌が再度この問題を取り上げようとする動きが出る。とりわけ私については「有力財界人の息子」という情報を、検察当局の一人が繰り返しマスコミに流していることもわかった。  私自身のことならば、なんの問題もない。人に対して厳しい筆致で問い詰める記者という職業を選んだ以上、自分が問われたときには、批判をしっかりと謙虚に受けとめなければならない。しかし、私とは独立した人格である親の問題は別である。  当時、父は父で、日経連会長として、みずからの信念で激しい発言を繰り返し、自民党と、そして銀行と、さらには電力会社や建設省とぶつかっていた。  みずからの冒頭陳述の間違いを正当化するために、情報を親子の問題にまで広げ、誤った情報をたれ流し、マスコミの誘導を繰り返す権力に対して許せないものを感じた。私はいざとなったら、日本経済新聞の対応とは別に「法的な対応」をすることを選ばなければならないと感じていた。私が父親に初めての相談をしたのはこの件だった。  東京駅前、建て替え前の新丸ビルに仮住まいしていた三菱マテリアルの会長室を、私は生まれて初めて訪れた。そして、これまでの経緯を逐一説明する。  話を聞いた父は、一言「間違ったことはやっていないんだな」と問いかけた。私がうなずくと、「じゃあ放っておいたらいい。会社に任せておけばいい」。 「記事が出れば、親おや父じにも迷惑がかかりますよ」と問えば、「かかるはずないだろう。それぞれ自立した個人なのだから」。 「責任を問う声も出るかもしれませんよ」と聞けば、「まあ、そんな馬ば鹿かなことをいう奴やつはいないと思うが、もしもいたなら、辞めてやるさ。別になりたくてなったポストではない」とあっさり言い切った。  私とはスケールが違った。  あの時、父のいうことを聞いた結果が現在の私である。雑誌や新聞の編集長を務め、BS放送の経営も経験した。病と向き合いつつ、充実したメディア人としての後半生を送れたと思う。  この本をまず、父に捧ささげたい。  父は世田谷区のホームで万全の介護を受け08年に逝いった。そして、母は今年93歳になるが、この本の出版を誰よりも楽しみにしている。母にもこの本を捧げたい。  他にも、お礼を言わなければいけない人があまりにも多い。そのなかで、藤田俊一、内山淳介の二人だけ名前を挙げさせてもらう。  藤田は、バブル崩壊前後に日経の証券部でともに過ごし、一面企画の「日本人と会社」などで一緒に仕事をした。私が日経ビジネス編集長だった95年から97年の間は、筆頭副編集長としてすべてを仕切ってくれた。私から見ると、日本一の編集者だったと思う。そして今回の本でも、企画段階からかかわり、あらゆる観点から意見を出し、一緒に「あの時代」をさすらってくれた。  いま一人、内山は若き新潮社の編集者である。バブルを全く知らない世代として、バブルの時代に向かい合い、若い世代に対するインタプリター(解釈する人)としての役回りを完かん璧ぺきにこなしてくれた。私がペンネームで雑誌フォーサイトに連載していた時代の編集担当でもあった。 「いつでも永野の周りには誰かがいて助けてもらっているね」という友人は多い。今回もその例に漏れなかった。  そして最後に、妻の直美にありがとう、と言いたい。   2016年10月吉日 永野健二 参考文献 はじめに 池尾和人『連続講義・デフレと経済政策 アベノミクスの経済分析』日経BP社、2013年 岩田規久男『インフレとデフレ』講談社学術文庫、2012年 岡崎哲二・奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社、1993年 香西泰・白川方明・翁邦雄編『バブルと金融政策 日本の経験と教訓』日本経済新聞社、2001年 小宮隆太郎編『金融政策論議の争点 日銀批判とその反論』日本経済新聞社、2002年 榊原英資『資本主義を超えた日本 日本型市場経済体制の成立と展開』東洋経済新報社、1990年 渋沢栄一『雨夜譚(あまよがたり)』岩波文庫、1984年 白川方明『現代の金融政策 理論と実際』日本経済新聞出版社、2008年 高尾義一『平成金融不況』中公新書、1994年 小峰隆夫・岡崎哲二・寺西重郎・松島茂・中村尚史・中林真幸・日本経済研究センター50年史編纂委員会『エコノミストの戦後史』日本経済新聞出版社、2013年 日本経済新聞社編『株は死んだか』日本経済新聞社、1991年 日本経済新聞社編『宴の悪魔 証券スキャンダルの深層』日本経済新聞社、1991年 日本経済新聞社編『検証バブル 犯意なき過ち』日経ビジネス人文庫、2001年 野口悠紀雄『バブルの経済学』日本経済新聞社、1992年 野口悠紀雄『1940年体制』東洋経済新報社、1995年 浜田宏一『アメリカは日本経済の復活を知っている』講談社、2013年 宮崎義一『複合不況』中公新書、1992年 吉田和男『日本型銀行経営の罪 金融危機の本質は何か』東洋経済新報社、1994年 吉冨勝『日本経済の真実 通説を超えて』東洋経済新報社、1998年 F・L・アレン『オンリー・イエスタデイ』藤久ミネ訳、筑摩叢書、1986年 E・H・カー『歴史とは何か』清水幾太郎訳、岩波新書、1962年 ジョン・K・ガルブレイス『バブルの物語 暴落の前に天才がいる』鈴木哲太郎訳、ダイヤモンド社、1991年 C・P・キンドルバーガー『大不況下の世界1929─1939』石崎昭彦ほか訳、東京大学出版会、1982年 C・P・キンドルバーガー『熱狂、恐慌、崩壊 金融恐慌の歴史』吉野俊彦/八木甫訳、日本経済新聞社、2004年 リチャード・クー『バランスシート不況下の世界経済』徳間書店、2013年 J・M・ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』塩野谷祐一訳、東洋経済新報社、1995年 J・M・ケインズ『デフレ不況をいかに克服するか ケインズ1930年代評論集』松川周二編訳、文春学藝ライブラリー、2013年 ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』村井章子訳、日経BP社、2008年 ミルトン・フリードマン『選択の自由』西山千明訳、日経ビジネス人文庫、2002年 第1章 胎動 1 三光汽船のジャパンライン買収事件 掛谷建郎『官治国家との訣別』日経BP社、1996年 高杉良『小説日本興業銀行(第1部─第5部)』講談社文庫、1990─1991年 日本経済新聞特別取材班『座礁 ドキュメント三光汽船』日本経済新聞社、1985年 本所次郎『転覆 海運・大型乗っ取り事件』社会思想社、1995年 エズラ・F・ヴォーゲル『ジャパンアズナンバーワン』広中和歌子ほか訳、TBSブリタニカ、1979年 ディビット・カプラン、アレック・デュプロ『ヤクザ』松井道男訳、第三書館、1991年 ケント・E・カルダー『戦略的資本主義 日本型経済システムの本質』谷口智彦訳、日本経済新聞社、1994年 2 乱舞する仕手株と兜町の終焉 朝日新聞経済部編『お金に踊る世界 証券界の内幕』プレジデント社、1982年 小高正志『夜に蠢く政治家たち』エール出版社、1981年 是川銀蔵『相場師一代』小学館文庫、1999年 笹川良一『巣鴨日記』中央公論社、1997年 清水一行『擬制資本』徳間書店、1986年 清水一行『小説 兜町(しま)』三一書房、1966年 髙山文彦『宿命の子 笹川一族の神話』小学館、2014年 東京タイムズ取材班『兜町の懲りない面々』ベストブック、1988年 谷村裕『大蔵属、月給七拾五圓 私の履歴書』日本経済新聞社、1990年 3 押し付けられたレーガノミクス 掛谷建郎『米銀の崩壊と再生 金融自由化の誤算』日本経済新聞社、1993年 関山豊成『ウォール街』日本経済新聞社、1985年 日本経済新聞社編『SECの素顔』日本経済新聞社、1989年 日本経済新聞社他編『第二世紀の資本市場』日本経済新聞社、1978年 ヘンリー・カウフマン『カウフマンの警告』佐藤隆三訳、オータス研究所、1986年 スーザン・ストレンジ『カジノ資本主義 国際金融恐慌の政治経済学』小林襄治訳、岩波書店、1988年 スーザン・ストレンジ『国家の退場 グローバル経済の新しい主役たち』櫻井公人訳、岩波書店、1998年 スーザン・ストレンジ『マッド・マネー』櫻井公人ほか訳、岩波書店、1999年 ジョージ・ソロス『ソロスの資本主義改革論 オープンソサエティを求めて』山田侑平ほか訳、日本経済新聞社、2001年 ピーター・バーンスタイン『リスク』青山護訳、日本経済新聞社、1998年 4 大蔵省がつぶした「野村モルガン信託構想」 相田雪雄『投資顧問業事始め』金融財政事情研究会、1990年 日経ビジネス『リスクの鉄人 J.P.モルガン』日経BP社、1995年3月13日号 編纂委員会『追悼 北裏喜一郎』野村證券、1986年 アル・アレツハウザー『ザ・ハウス・オブ・ノムラ』佐高信監訳、新潮社、1991年 5 頓挫した「たった一人」の金融改革 栗林良光『大蔵省証券局』講談社、1988年 日経ビジネス『大蔵省ダウンサイジング 官治国家との決別』日経BP社、1994年3月28日号 日本経済新聞社編『官僚 軋む巨大権力』日本経済新聞社、1994年 6 M&Aの歴史をつくった男 NHK経済部、下田智・森永公紀『極秘指令「X社を買収せよ」』日本放送出版協会、1990年 高橋髙見『われ闘えり 私のM&A実践経営録』経済界、1989年 第2章 膨張 1 プラザ合意が促した超金融緩和政策 岡部直明『ドルへの挑戦 Gゼロ時代の通貨興亡』日本経済新聞出版社、2015年 軽部謙介『検証 バブル失政』岩波書店、2015年 竹下登『平成経済ゼミナール』日経BP出版センター、1995年 船橋洋一『通貨烈烈』朝日文庫、1992年 ウォルター・バジョット『ロンバード街』久保恵美子訳、日経BP社、2011年 2 資産バブルを加速した「含み益」のカラクリ 薄井彰『会計制度の経済分析』中央経済社、2015年 菅直人『新・都市土地論』飛鳥新社、1988年 中村英雄『ジョン・ローの周辺』千倉書房、1996年 日経ビジネス『「住専」解体 日本経済の時限爆弾』日経BP社、1993年1月18日号 吉村光威『ディスクロージャーが市場と経営を革新する』中央経済社、1994年 3 「三菱重工CB事件」と山一証券の死 河原久『山一証券 失敗の本質』PHP研究所、2002年 清武英利『しんがり』講談社+α文庫、2015年 草野厚『山一証券破綻と危機管理 1965年と1997年』朝日新聞社、1998年 鈴木隆『滅びの遺伝子 山一證券興亡百年史』文藝春秋、2005年 田原総一朗・田中森一『検察を支配する「悪魔」』講談社、2007年 読売新聞社会部『会社がなぜ消滅したか』新潮文庫、2001年 4 国民の心に火をつけたNTT株上場フィーバー 町田徹『巨大独占 NTTの宿罪』新潮社、2004年 5 特金・ファントラを拡大した大蔵省の失政 奥村宏『日本の株式市場 投機時代の株価はこう決まる』ダイヤモンド社、1988年 経済セミナー臨時増刊『株価暴落・ドル暴落と日本経済』日本評論社、1988年 日本経済新聞社編『株式市場日誌 スクランブル この一年』日本経済新聞社、1988年 日本経済新聞社編『会社は誰のものか』日本経済新聞社、1987年 ピーター・リンチ『ピーター・リンチの株で勝つ』三原淳雄ほか訳、ダイヤモンド社、1990年 6 企業の行動原理を変えた「財テク」 日経ビジネス編『会社の寿命』新潮文庫、1989年(日経BP社、1984年) 日本経済新聞社編『投資顧問 躍り出る「財テク」仕掛人』日本経済新聞社、1985年 福間年勝『リスクに挑む』バジリコ、2002年 編集委員会『追想北二郎』阪和興業、2000年 第3章 狂乱 1 国民の怒りの標的となったリクルート事件 河合良成『帝人事件 三十年目の証言』講談社、1970年 澤野廣史『恐慌を生き抜いた男 評伝・武藤山治』新潮社、1998年 田原総一朗『正義の罠 リクルート事件と自民党─20年目の真実』小学館、2007年 山本博『追及 体験的調査報道』悠飛社、1990年 2 1兆円帝国を築いた慶応ボーイの空虚な信用創造 金田信一郎『失敗の研究 巨大組織が崩れるとき』日本経済新聞出版社、2016年 日経ビジネス編『真説 バブル 宴はまだ、終わっていない』日経BP社、2000年 福沢諭吉『福翁自伝』岩波文庫、1978年 福沢諭吉『文明論之概略』岩波文庫、1995年 村山治『市場検察』文藝春秋、2008年 ジリアン・テット『セイビング・ザ・サン リップルウッドと新生銀行の誕生』武井楊一訳、日本経済新聞社、2004年 3 「買い占め屋」が暴いたエリートのいかがわしさ 後藤光男『企業提携の時代 日本企業によるM&Aの世界』産能大学出版部、1992年 佐野眞一『カリスマ 中内㓛とダイエーの「戦後」』日経BP社、1998年 ジョージ・アカロフ、ロバート・シラー『アニマルスピリット 人間の心理がマクロ経済を動かす』山形浩生訳、東洋経済新報社、2009年 ポール・ラディンほか『トリックスター』皆河宗一ほか訳、晶文社、1974年 4 トヨタピケンズが示した時代の転機 宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波新書、1974年 内橋克人とグループ二〇〇一『規制緩和という悪夢』文藝春秋、1995年 大野耐一『トヨタ生産方式』ダイヤモンド社、1978年 鎌田慧『自動車絶望工場 ある季節工の日記』講談社文庫、1983年 渡辺喜太郞『渡辺喜太郞一代記 人の絆が逆境を乗り越える』ファーストプレス、2011年 T・ブーン・ピケンズ『ブーン わが企業買収哲学』相原真理子訳、早川書房、1987年 5 住友銀行の大罪はイトマン事件か小谷問題か 石原俊介編『情報の情報』現代産業情報研究所、1991年 伊藤博敏『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』小学館文庫、2016年 竹井博友『戯言句集』竹井出版、1990年 中原義正『蛇の目ミシン解体計画』日新報道、1993年 西川善文『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』講談社、2011年 日本経済新聞社編『ドキュメント イトマン・住銀事件』日本経済新聞社、1991年 山下彰則『大銀行の犯罪 無軌道の現場から』ザ・マサダ、1996年 6 「株を凍らせた男」が予見した戦後日本の総決算 奥村宏『新版 法人資本主義の構造』現代教養文庫、1991年 週刊東洋経済臨時増刊『経済白書特集 90』東洋経済新報社、1990年 首藤宣弘『石井独眼流実戦録 かぶと町攻防四十年』毎日新聞社、1987年 高橋亀吉『私の実践経済学』東洋経済新報社、1976年 高橋亀吉『経済学の実際知識』講談社学術文庫、1993年 笹川平和財団編『田淵節也追悼集』2009年 藤本隆宏『日本のもの造り哲学』日本経済新聞社、2004年 盛田昭夫・石原慎太郎『「NO」と言える日本』光文社、1989年 第4章 清算 1 謎の相場師に入れ込んだ興銀の末路 奥山俊宏・村山治・横山蔵利『ルポ内部告発』朝日新書、2008年 西村吉正『金融行政の敗因』文春新書、1999年 日本経済新聞社編『されど「会社人」 日本的経営の静かな崩壊』日本経済新聞社、1992年 村山治『特捜検察金融権力』朝日新聞出版、2007年 2 損失補塡問題が示した大蔵省のダブルスタンダード 竹内文則『「日本版ペコラ委員会」 日本型金融システムを総括する!』経済法令研究会、2000年 山口義正『サムライと愚か者 暗闘オリンパス事件』講談社、2012年 蠟山昌一『金融自由化の経済学』日本経済新聞社、1989年 3 幻の公的資金投入 宮沢喜一『社会党との対話 ニュー・ライトの考え方』ミリオン・ブックス、1965年 おわりに 石原慎太郎『天才』幻冬舎、2016年 宇沢弘文『現代経済学への反省』岩波書店、1987年 司馬遼太郎『土地と日本人』中公文庫、1980年 司馬遼太郎『風塵抄』中公文庫、1994年 司馬遼太郎『風塵抄二』中公文庫、2000年 早野透『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』中公新書、2012年 村上泰亮『反古典の政治経済学 上下』中央公論社、1992年 村上泰亮『新中間大衆の時代』中公文庫、1987年 村上泰亮『産業社会の病理』中央公論社、1975年 J・A・シュンペーター『資本主義は生きのびるか』八木紀一郎編訳、名古屋大学出版会、2001年 時代を見事に描き切った総括、形を変えた自伝 勝 栄二郎  永野さんに初めてお会いしたのは一九八二年頃だった。彼は既に名を馳はせたバリバリの兜かぶと町ちょう担当の日本経済新聞記者で、私は人事異動で初めて証券局勤務となった新米の課長補佐。当時の日本は第一次石油ショックの教訓を生かし、先進国の中では比較的うまく第二次石油ショックを乗り切ったころで、世界における日本のプレゼンスが高まりつつある時代であった。行政上の課題として二つの「コクサイ」、即すなわち日米金融協議をはじめとする国際化の流れへの対応と、大量の国債を消化するための環境整備を抱えていた。  そんな中で経験豊富で鋭い洞察力を備えた永野さんとの会話は刺激的であり、市場や金融を見立てる時の考え方を養うのに随分と役に立った記憶がある。たまに一緒に飲む時も話に引き込まれ、気がついたら夜明けだったことが二回ぐらいあった。実は、そうして朝まで飲むたびに翌日、永野さんが心臓発作で倒れられ、生命の危機に瀕ひんするという事態が続いたのである。そのようないきさつがあるから、今年に入って「『バブル』の文庫版を出すので、その解説を書いてくれ」と頼まれた時、断れるはずがない関係である。 『バブル』は永野さんが一生かけて取り組んできた市場と金融を巡る思想史であり、形を変えた自伝でもある。市場をきちんと機能させなければ、そしてそのための制度改革などの環境整備を遅れずにタイミングよく実施しなければ、この国は潰つぶれるという熱い思い。永野さんが尊敬した野村証券元社長の田た淵ぶち節せつ也や氏が硬直した金融秩序を「資本主義計画経済」と呼び、その打破に生涯をかけて挑んだ思いへの共鳴。「大蔵省が一番えらく、その代理人が日本興業銀行で、興銀の指図でお金を配分する都市銀行が床の間を背負って上座に座り、下座で頭を低くして控える証券会社がお金を融通していただくという世界」。そんな銀行主導の間接金融システムを、証券会社主導の直接金融に変革するのが田淵氏の夢だった。  著者曰いわく。バブルが生じた背景には世界経済の不安定化があった。ベトナム戦争で疲弊した米国は単独ではもはや世界経済を支えられず、ドル本位制から変動相場制に移行する。さらに二度の石油ショックを経て、米国は巨大な経常収支赤字と財政赤字に苦しむ。その打開策が八五年のプラザ合意だった。好調な経済を維持していた日本と西ドイツを巻き込み、為替調整を通じた世界経済の調整の試みである。その結果、円高不況に陥った日本経済を建て直すため、累るい次じにわたる金融緩和政策と財政刺激策が採られ、結果的にバブルを生む。  この内外の流れを前提としつつ、永野さんは日本固有の制度や慣行、政策がバブルを加速したと断じる。絶えず遅れることなく構造改革に取り組まねばならない所以ゆえんである。  例えば、時価評価をしないため、バランスシートに表れない莫ばく大だいな含み益が発生し、それは株主でなく経営者のもの、として恣し意い的に使われがちだった。例えば、銀行内部では営業部門と審査部門の組織統合が進み、チェック機能を発揮できなかった。例えば、土地価格は上がるものだという土地神話とカネ余り現象を背景に、有担保主義に頼る金融機関は極端な融資拡大路線に走った。また八七年のブラックマンデーのあと、世界の株価下落を日本で止めようとして、大蔵省は諸もろ々もろの有価証券に対する投資誘導策をとった──。  大蔵省、日銀、金融機関、証券会社、事業会社それぞれに永野さんは鋭い筆を向ける。今から振り返れば、それぞれに正しい指摘ではあるが、当時の内外の情勢を考えると、果たして永野さんが言うような判断を下せたかどうか、評価が分かれるところであろう。  本書の魅力はこうした冷徹な分析だけではない。読んでみて個人的に一番興味をそそられたし、また最も多くの紙数を充あてられているのは、その時代を駆け抜けた様々な人物の描写と評価なのである。ディープな取材をもとに、時代認識を踏まえた鋭い洞察力と、人間そのものに対する深い理解によって、それぞれの人間像を抉えぐり出している。  例えば、大蔵省の佐さ藤とう徹とおる証券局長。私は証券局で一年だけお仕えしたが、恥ずかしながら、凄すさまじい変革のパワーに突き動かされた佐藤局長の水面下の行動は全く知らなかった。  部下からみれば、非常に情に厚く、ただし近寄りがたい上司だったが、永野さんが描く人物像はリアルで生々しい。佐藤局長は、自らが属する昭和二十九年入省組からは事務次官が出ない、と思わせる人事があった時、その理不尽な思いを最も尊敬する次官OBだった長なが岡おか実みのる先輩にぶつける。だが、大蔵省のドンと呼ばれていた長岡さんから「徹てつ、すっこんでろ」と激しく罵ば倒とうされたという。永野さんと佐藤さんの仲は、こんな心情を吐露できる深いものだったことがうかがえる。  また永野さんはエリート層が忌いみ嫌ったバブル期のトリックスターたちも頭から否定することはしない。「何よりも、秀和の小林茂、麻布建物の渡辺喜太郎、光進の小谷光浩など日本の経済社会で異端児、もっといえば成り上がりと蔑さげすまれていた人たちに、ある種の親近感をもっていた。(中略)資本主義のなかの企業家精神には、いつも上昇志向とともに、ある種のいかがわしさが潜んでいるものなのである。それをチェックし、上限を設けるのが、金融機関であり、官僚の仕事ではなかったか」という言葉はひときわ印象深い。  内外の経済社会の流れや、その中に位置づけられる制度、慣行、政策を追う冷徹な眼と厳しい批判力。他方では人間に対する深い洞察力と愛情。相矛盾しかねないこのような二つの視点を併せ持ち、一つの時代を見事に描き切った本書は、やはり永野さんにしか書けない総括であり、彼自身の形を変えた自伝なのである。  その昔、永野さんの歌を一度だけ聞いたことがある。曲は鳥羽一郎の「兄弟船」であった。世の中に対する深い慈愛の歌に聞こえた。       (平成三十一年三月、インターネットイニシアティブ社長・元財務事務次官)   この作品は令和元年五月新潮文庫より刊行された。   電子書籍化に際しては同初版第一刷を底本とし、仕様上の都合により適宜編集を加えた。 バブル 日本迷走の原点 発 行 2019年10月18日 著 者 永なが野の健けん二じ 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162─8711     東京都新宿区矢来町71     URL: https://www.shinchosha.co.jp © Kenji Nagano 2016